自衛と権利行使のためのコミュニティへ【著者 弁護士 西尾孝幸】

論考

自衛と権利行使のためのコミュニティへ【著者 弁護士 西尾孝幸】

一 市民と企業の「法化」への対策

1 やむを得ない「現代日本の法化」

現代の国家は「社会福祉国家」として、貧困や不平等など諸々の問題を解決しなくてはなりません。しかし多元化社会と言われるように多数の価値観が併存している今の社会では、どれか一つの道徳観を国民に押し付けることもできず、また隣人愛を説いて問題解決を図ることも不可能でしょう。そこで、一律に強制力の及ぶ法律が、解決のための唯一の手段となります。

 

さらに科学技術の発展は、危険な環境汚染物質やネット被害、あるいは携帯基地局からの低周波音による健康被害など、高度化する新たなリスクを次々に産み出しており、これらもそのままにしておくことのできない問題です。しかし、高度化するリスクには、とても個々人の能力では対抗できません。こうした側面からも法律の力による社会全体としての危険防止策の立案が必要とされます。このように今後もますます多くの法律が登場せざるを得ない状況に日本社会はあります。

 

法律による規制が社会全体に広がっていく現代日本での法律による支配の進行、「法化」それ自体は阻止しようがありません。夏目漱石は明治44年の有名な「現代日本の開化」という講演で、文明開化で便利な生活が可能になっても、国民は決して幸せになってはいないと歎き、「開化は内発的であるべきなのに日本の開化は外発的だから上滑りだ、上滑りを止めようとすると神経衰弱になる。涙を呑んで上滑りに滑っていかねばならない。」と述べ、内発的でない「開化」は警戒すべきなのだと、指摘しました。

 

また、今までにない「新しい知恵」が必要だと「実学」を奨励した福沢諭吉の「学問のすゝめ」(明治5年初編、明治13年合本版)がベストセラーとなったのも、「文明開化」という西洋発の大波の襲来に対し、多くの国民が広く警戒心を持っていたからではないでしょうか。

 

現代日本の「法化」も明治の「開化」同様、外発的で上滑りですが、やはり対策が必要です。福沢諭吉が「文明論の概略」の中で、文明は「徳」ではなく「智」によって発展する、と指摘したように、現代の日本人に必要なのも、道徳心に訴えることではなく、「法の知」を身につけることではないでしょうか。

 

しかし、現在の日本社会には「法化」進行や法化の歪みへの危機感すらありません。問題は、市民や企業は一方的に規制されるだけで、規制される側が規制の成立に参加できないことです。 市民と企業の側が、「法化」という掛け声でどんどん進む政府の「規制権力の強化」への対策を立てなければ、法化の官民格差は拡大する一方です。

 

2 「管理型法化」がせまる法の網への対抗策

法化のうち、司法制度改革による「自立型法化」や「自治型法化」の動きは遅々と進みません。しかし、他方では、行政の管理権限が強化される「管理型法化」は網の目のように日本中を隈なく覆うようになってきました。

 

アリストテレスの「政治学」によれば、すべての政治的結合体は高度な善を目指すものであり、メンバーはその目的達成に参加することを求められます。この考えは、市民は国事に参加し実生活で活動すべきだ、という市民参加型の政治体制や共同体を重視するコミュニタリズムにつながります。これに対比されるのが観照(実生活を離れて森羅万象の学問的な観察と考察をする)的生活で、リバタリアンや竹林の七賢、あるいは隠者の尊重につながる考えです。アリストテレスは有徳な市民として行動的生活を送るべきだとしていますが観照も行動だと認めていますし、むしろ政治的な事柄からは遠ざかるのが有徳な人の生活だという考えの方が、日本人にはなじみ深いのではないでしょうか。

 

しかし、アリストテレスの時代とは異なり、もはや誰もが法化の網から逃れられない現代社会では、自分だけを法化の外に置くわけにはいきません。

 

そして法化が進むのは止むを得ないとしても、それは国民がその代表である議会を通じて法律を成立させ、その法律が行政も司法も制御する、というのが真の「法治国家」の実現でなくてはなりません。しかし市民や企業を縛る規制内容は、「皆さんのためだから」とお役人が決めているのが実情です。そして、規制内容の変更も撤回も、お役所の考えで自在になされるというのが今の日本の現状なのです。

 

市民と企業の立場で、暴走気味の「管理型法化」社会にどう対処すればいいでしょうか。

 

法化への備えの第一歩は「管理型法化」攻撃への防御策・自衛策です。自分たちがどう「規制」されているのか、現状の国民生活や企業活動をどういう法規制が取り囲んでいるのか、それはどのようにして出来上がったのか、またどう変動するのかその動きを監視しておくことも大事です。

 

もう一つは市民が「自立型法化」「自治型法化」に積極的に自ら参加していくことです。具体的には、市民が「権利行使の道具」としての法知識を身につけ、行政や企業に対し裁判制度や裁判以外の紛争解決手段を活用して対応し、自らも法化に積極的に参加することです。

 

3 中間集団によって個人を支える

さて、いくら市民個人が法を理解して法知識を身につけ「法という道具」を利用しようとしても、法化社会のうねりに対抗するには孤立していては力不足です。この「法という道具」の使い方には工夫や手間が要りますし、単純な「法による規制」に留まらず、「法を口実とする行政の規制」や「誰が規制を作るルールを支配しているか」にも焦点を当てていかなくてはなりません。それには一市民の力では限界があります。もちろんアメリカのように、誰もが弁護士を雇って各自が自衛する方法もありうるでしょうが、弁護士が身近でない日本社会では、そうもいきません。市民が、お上(政府)が進める秩序維持の大義名分に対抗して、自由を主張して規制を跳ね返し、十分な権利行使をするにはどうすればいいでしょうか。

 

そもそも、孤立化が個人を「管理法化」の規制対象でしかない存在に陥れるのです。個人が孤立てしないで何らかの中間集団に属して、その中間集団のなかで規制はどうあるべきかを討議し、みんなの創意工夫と労力を出し合って、行き過ぎた規制を批判し、あるいは積極的な権利行使に取り組むことです。思い出してください、日本人は職場でのQC活動などのように、身近な人々同士がそれぞれが意見を出し合って、より良い仕事や業績を実現してきましたし、その中でこそ個人も実力を発揮できました。この日本人の中間集団という伝統の力を活かすのです。そのためには、それぞれが意見を自由に言える集団であり、かつ社会からの孤立していない集団であることが必要です。そうすると必然的に「コミュニティ」という中間集団の形に行く着くのではないでしょうか。孤立しないためには何らかの中間集団に属し集団の力を味方にすることが大事ですが、ただ群れて不満を吐き出すだけでは何の力にもなりません。法化社会では、公共性を備えた中間集団でなければ規制への対抗も権利行使も、社会からのサポートを得られません。法化社会に適した中間集団をコミュニティとして再興すること、これが効果的な市民の法化対策だと思います。そういう中間集団となりうるコミュニティの再興策も考えてみたいと思います。

 

二 自衛の「盾」、権利行使の「矛」としての法知識

1 「道具」としての法の利用へ

日本の法律は、市民にとって「子供のケンカに大人(お上)を呼ぶ」ための存在でしかありませんでした。そうではなく、「法化社会」を生き抜くために「自らが使う道具」としての法知識へ向かうべきなのです。

 

このように、法化への備えの第一歩は言うまでもなく法知識を身につけることですが、問題はどういう法知識を身につければよいのか、ということです。法化社会で市民が身につけるべきは、自衛の道具、いわば「盾」となる規制についての法知識と、権利行使の道具、いわば「矛」となる法知識です。

 

市民と「官」との法化格差は、市民の「お上頼り」の体質が生んだ自立の放棄によっても広がっています。企業については、「お上」からの一方的な規制の押し付けが進むことによって法化格差の拡大が助長されています。自分たちがどう「規制」されているのか、現状の国民生活や企業活動をどういう法規制が取り囲んでいるのか、それが「盾」という道具になって、市民を管理型法化の横暴から守る法知識ではないでしょうか。

 

市民としては、このように刑罰などで国民が「規制」されている現状を把握することが、「盾」としての法知識になり、権利侵害に対抗する法的な手段などの権利行使の知識が「矛」という道具になるのです。憲法上の権利や行政訴訟への取り組み方、企業や行政に対してできる「権利行使」の内容、そうしたものを身に着け「道具」として使いこなすことによって自立し、盾と矛で法化「武装」した市民になれるのではないかと思います。

 

川島武宜は「日本人の法意識」(岩波新書)の中で、日本的な義理と人情の世界は前近代で封建的である、日本人も「何よりも優越する権威として内心から法を尊重する」という西洋流の「近代的な法意識」を身につけるべきだと提唱しました。これは田中教授の言う「自立型法」中心の「法化」実現を目指すべきだ、というものでしょう。「自立型法」とは、近代西欧法をモデルとし、普遍的一般的な法の準則を確立し、「法」は道徳や宗教などの社会規範や裸の権力行使である強制から区別されるもので、「法」はそれ自体独立に成り立つ「自立的な領域」だとするものです。裁判過程を重視し、法というものを至上視して、社会的な問題を一般的な法的ルールで解決しようとする考えです。

 

しかし日本社会では、西洋流のいわゆる「近代的な法意識」の定着は、いくら待っても実現しそうにありません。他方では、法律への関心を持たず、法律に囲まれていることを意識しないで生活することが、市民の自律と自由を危うくするという「法化社会」は進行します。

 

では、今の日本社会で、法をどう理解すれば市民は法化社会に対処できるでしょうか。阿部昌樹は、川島が求めたような法意識は日本では定着していないが、日本人は法を「道具」として利用できるかどうかという観点で受け容れてきたと指摘しています(「ローカルな法秩序」勁草書房)。確かに、「管理型法化」による民間に対する規制強化の広がりは、政府が秩序維持の「行政の道具として」、法の利用を進めているといえるでしょう。福沢諭吉は、上からの文明開化に対抗するために「学問のすすめ」を出版し、民間での「実学」を奨励しました。上からの法化に対しても同様に、われわれ市民が、「規制の道具として使われる法」への対策と「権利行使の道具として利用できる法」のノウハウという、法利用についての実際的な知恵を備えることがまず必要なのです。その知恵こそが法知識による「法の知」なのです。

 

市民の立場からはまず、企業を相手にした取引ではどういう法律が自分を守ってくれるのかという消費者保護法の知識、あるいは業者との取引においては「商法」が私人にも適用される規定がある、ということに関する知識も必要とされるでしょう。例えば「商法」には、消費者金融会社からの請求は「5年間」で消滅時効にかかって私人も保護される、という規定や(民間人同士では10年で消滅時効)、宅建業者にマンションを案内してもらって購入すれば媒介手数料の約束が無くても私人も商人から報酬請求をうける、などの規定があります。

 

消費者保護の法律は、企業にとって「盾」となる「規制」についての把握すべき重要な法知識分野ですが、特に市民からの「権利行使の道具(矛)」という側面にも目を向けることは企業のコンプライアンス対策としても有効だと思います。

 

また新しい技術や発想が次々と生まれるネット社会には、個々人では到底対抗できない不法・無法地帯も発生します。それらに対応するためには新たな法律によって対策を立てるほかなく、市民もまた、その法律を利用して自衛する必要があります。またネットの進化は、本人が気付かぬうちに規制違反を犯す可能性を高めています。「ネット社会」での法律による新たな規制を知ることは、市民の法化への自衛策としても、そして企業のコンプライアンスにとっても不可欠になってきています。

 

2 ネット社会での自衛と権利行使のための法知識 

ネット社会ほど法化になじみ、法化を推進する環境はないでしょう。ネットには、組織に頼らず「世界をより良き場所にするために働いている」という意思の実現の場所へ(梅田望夫)という「光」の側面と、「匿名による悪意の発信」と「個人の無防備なアクセス」による予想外の被害という「影」の側面があります。特にこの「影」の側面は暗さを増すと共に広がってもいます。原因はすべてネットの「匿名」という構造に潜んでいます。悪意に対しての自衛が出来ないネット住民は、法律で保護するしかありません。ネット被害を防止するために、期待されない送信や不正なアクセスを規制する法律が次々に成立しています。このように規制は不可欠ですが、市民として自衛できる余地も相当あるのです。

 

青少年保護については「有害サイト規制法」(平成21年4月施行)や児童ポルノ禁止法がありますが、表現の自由などの問題があり、親のフィルタリングや業者のブロッキングなどの自主的な関与を規制に組み込まざるを得ず、限界が指摘されています。しかし、親として自主規制に積極的に取り組むよう促すことは、法化の行きすぎを抑えつつ健全な社会を維持する「市民による法化」のきっかけになるのではないかと思います。それには田中教授の「自治型法化」の考えが参考になるのではないでしょうか。「自治型法化」とは、「自治型法」と言われる「インフォーマルな社会規範」「慣習法」や「関係者の協定」などを尊重し、素人によるインフォーマルな私的秩序づけやコミュニティの復権を目指すものです。例えば共同体での私的交渉や自主性を尊重し、ADR(裁判以外での紛争解決機関)などを推進しようとする法化です。われわれも市民みずからが参加できる「法的手段」は十分活用したいものです。

 

さて他方では自らを守る「盾」となる法知識も必要です。匿名であることを良いことに、調子に乗ってネット炎上を煽っているとあなたも「名誉棄損罪」として摘発され、あるいは安易にネット上に「死ね」と書けば「脅迫罪」として立件されかねません(平成21年3月)。ネットは信用性が低い、ネットは反論が簡単だ、などの理由で、名誉棄損罪は成立しにくいとする解釈もありましたが、最高裁は平成22年3月、新聞報道などと同様に確実な資料や根拠がなければ名誉棄損罪が成立する、との初めての判断を示しました。名誉毀損はれっきとした犯罪ですから告訴があれば警察も摘発を進めます。他方、ネットで名誉棄損された側には相手を訴える手段が用意されています。そもそも誰が発信者なのかを探知することが必要ですが、「プロバイダー責任制限法」(平成14年5月施行)は、誰がそうした誹謗中傷を行ったのか、プロバイダーに対しその開示を求める権利を定めています。

 

ネット時代は誰もが表現者となり得る時代ですが、他方、ネットは、他人のホームページなどから簡単にコピペ(コピー&ペースト)をして、他人の文書や画像、あるいは楽曲などの著作物を利用できる機会を大幅に増やしました。ネット時代は、誰もが容易に著作権侵害者となりうる時代でもあるのです。

 

著作権法違反には刑事罰がありますが、平成16年にそれまでの懲役「3年以下」が「5年以下」に、平成18年にはさらに「10年以下」に引き上げられ、わずか2年の間に3倍以上に刑事罰が重くなりました。しかも、少年ジャンプを発行前にネットへ公開した14歳の少年が、悪質な著作権違反だとして逮捕された(平成22年6月)事例のように、摘発の現場でも厳罰化が進んでいます。なお、著作権重罰化の弊害と規制強化法案の一方的な成立過程については山田奨治教授が詳しく分析しています。(「日本の著作権はなぜこんな厳しいのか」人文書院)

 

ネットに他人の肖像やプライバシーを勝手に公開すれば、処罰されたり訴えられたりされかねません。ネット利用者はそれらの保護についても法化が進んでいる現状を十分認識しなくてはなりません。

 

3 法を与えられる立場から法を使う立場に、「13歳の社会契約」と自由民権

法化時代になれば、国民の誰もが法律に親しむような習慣を持つことが望ましいでしょう。しかし、日本では大人ですら法律を敬遠しています。

 

ローマ法最古の法典「十二表法」はそれまでの慣習法や訴訟法、祭祀法などをまとめて、12個の表として規定したものです。紀元前450年ころに公示されて以来、ずっとローマ人の、教養の根幹をなしてきたと言われます。彼らは子供のころから「十二表法」を暗記しており、その慣習はずっと引き継がれ制定後のはるか400年後、ローマの雄弁家の時代まで伝わっていました。この長い伝統がその後の西欧社会でローマ法が発展する基礎になったのです。西暦533年にユスティニアヌスが十二表法以後の法律や学説を編纂した「ローマ法大全」によって、ローマ法・ローマ法学がまとめられ、ビザンツ帝国やゲルマン国家にも継承され、西洋法学の源となりました。

 

子供のころから法に親しむことがいかに大切かということが日本では忘れられています。子供たちが成人となって法化した日本社会へ出て行く前に、法意識をきちんと持つことは法化社会の自立したメンバーとして生きるためにとても価値があることだと思います。刑法41条は「14歳未満を罰せず」としていますが、村瀬学(同志社大学大教授)は、この刑法上処罰される年齢の直前の13歳という節目の時期に、家・学校・地域を挙げて「家の人」から「法の人」の誕生を自覚させる「入法式」という行事を提案しています。そこで社会構造の「法的な仕組み」を教え、「これからは悪いことをすれば自分が処罰されるのだ」、ということは勿論「自分が権利主体としても法につながっているのだ」という事実を理解させるべきだ、としています。村瀬の提唱するこの「13歳の社会契約」は、法化が進む日本で自立した国民が誕生することにつながる、とても有意義な考えではないでしょうか。平成23年度から本格実施された新学習指導要領で、小学校から高校までの「法教育」がやっと盛り込まれましたが、特に「中学生」に「法主体」として自覚を促す法教育が活用されれば、例えば「いじめは犯罪だ」と自ら声を上げる生徒が出て来るのではないかと思います。

 

司法制度改革の進行にあわせて「市民感覚」がもてはやされています。裁判員制度の一番の特徴的なことは、当初、検察庁も裁判所も「裁判員裁判」による判決であればそれ自体を尊重しようとしていたことです。裁判員による一審判決を受けて控訴することも可能ですが、職業裁判官だけで合議する控訴審は「裁判員裁判」の判決をそのまま維持しようとしてきました。また検察も刑の重さである量刑が従来の他の事例から比較して軽すぎると判断した場合でも、控訴して争うことを差し控えていました。裁判員裁判は、市民感覚の量刑基準を尊重する、という形で制度の定着化が図られるのではないか、期待されました。しかし前述の通り、裁判員裁判の判決は控訴審で逆転されることも多くなり、「市民感覚」が否定され、裁判員制度そのものの存在意義をゆるがせにする事態が多発しています。

 

もともと「市民感覚」の尊重は、あくまでお上の設定した舞台の上だけでの話です。これに酔いしれているうちに国民の権利意識はむしろ薄れて行くのではないでしょうか。個人主義の進行で孤立した市民にとってこそ、法化社会での自衛策が急務だと思いますが、市民の法知識や法意識はむしろ低下しています。「お上だより」のつけです。

 

我々日本人もそろそろ権利が「与えられる」状態から脱却しなくてはなりません。今のお上主導の強硬な法化が席巻する状況は、われわれ国民が目覚める良い機会なのではないでしょうか。法化政策が衆愚政策とならないようにするには、我々が「与えられる改革」から「獲得する改革」へと進まなくてはなりません。法化社会では身勝手な「自由」は通用しません。行き過ぎた規制に対して憲法などの法的視点から異議を主張できなければ「自由」は獲得できません。今の日本で閉塞感が広がっているのは「権力はそれ自体膨張を志向する」という原理によって、法化によって「官」の威力が増大してきたからですが、それを放置してきた国民の側にも責任があると思います。日本社会はかつての自由民権運動時代の熱気を思い起こして、国民の側から今一度「自由民権」の旗を高く掲げる必要があるのではないでしょうか。

 

4 権利行使の道具としての法、消費者保護の法律を使いこなす

消費者被害に対しては行政が企業に厳しく対応しマスコミも注目するので、企業はコンプライアンス体制を整えて消費者保護の法化進行に対応しなくてはなりません。消費者の側も法化社会での自立した市民を目指して、お役所に駆け込む前に消費者保護の法律での「権利行使の道具としての利用方法」を理解しましょう。クーリングオフと消費者契約法について簡単にふれておきます。

 

消費者にとっては「クーリングオフ」の知識は重要です。「いやだからキャンセルしたい」ではなく「権利があるからキャンセルする」という発想への転換です。この制度を知らなければ、いざキャンセルしようとして行政に相談しても、既に期間を過ぎて手遅れにもなりかねません。

 

特商法(特定商品取引法)・割販法(割賦販売法)の定める「クーリングオフ」でのキャンセルは、契約日から8日以内(マルチ商法などでは20日以内)に「解除する」とハガキに書いて発送すればよく、契約の解除には一切理由が要りませんから幅広く使える権利です。しかも従来は指定された商品やサービスだけが対象でしたが、法改正で平成21年12月から原則としてすべての商品とサービスについてクーリングオフが可能になりました。「特商法」は訪問販売・通信販売などのように業者からアクセスがあった販売に適用され、「割販法」はクレジット払いなど分割払いの販売に適用される法律です。マルチ商法や内職商法あるいはエステや英語教室などの契約は、業者の店舗でなされた契約でもクーリングオフで取り消すことができます。

 

「消費者契約法」も消費者にとって使い勝手の良い法律です。この法律は消費者と事業者の契約であれば、不動産売買から日常雑貨の購入まで、どんな分野だろうが、どういう商品の取引だろうが原則として「すべて」の契約に広く適用されるものです。この消費者契約法を知っておくことが、市民として法化社会での自立を果たすための大きな一歩になるのではないかと思います。

 

この法律の特徴は大きく分けて2つあります。一つは、クーリングオフや民法の規定に該当しない場合でも、断定的な判断で勧誘したり、困惑させて契約した場合には広く契約の「取り消し」を認めたこと、もう一つは不当に高額な違約金や解約できにくくする条項など消費者に著しく不利な条項があった場合にはそれを「無効」としていることです。

 

さらに注目を浴びているのが「団体訴権」です。内閣府により適格団体と認定(平成24年6月現在全国で10団体)された消費者団体は消費者全体の利益を代表して、消費者に不利益な条項の契約をしないよう業者に差止めを求めることができるのがこの団体訴権です。平成20年の法改正で特商法違反の悪質な商法に対して、あるいは景品表示法違反を犯した業者の不当な表示行為に対しても団体訴権を行使することが出来るようになりました。さらに平成28年12月までに消費者団体が消費者被害を一括して回復請求できる制度(消費者裁判手続特例法)がスタートします。

 

5 行政訴訟による行政場面への市民の参加

行政訴訟法の改正(平成17年施行)は、市民が行政を訴えることができる範囲を拡大しました。こうした法化を積極的な権利主張に活用する市民も増えています。初めて環境権を理由に埋め立て事業の差止めを認めた「鞆の浦判決」(広島地方裁判所平成21年10月、平成24年6月広島県知事は埋め立て・架橋計画を中止に)がその好例でしょう。法化した市民が全国で、この改正を機に行政への情報開示請求などの裁判を次々に起こしています。平成20年の行政訴訟事件数(2770件)は、平成11年と比較し全国で1.7倍、東京では2.7倍と増えています。もっとも平成21、22年も同様の数字で、以後はそれほど伸びていないのは気がかりです。

 

企業同士、あるいは労働者と企業の紛争の場面で解決手段として裁判所を選ぶという傾向も一部では進んでいます。民間でも法化の進行に対応できる企業や市民が現われたことは、結果として法律と司法制度の利用について企業間や市民間にも法化格差を生じています。

 

法化にも、市民や企業が法的な権利を積極的に主張する「よい法化」(自立型法化と自治型法化)と、いたずらな規制と恣意的な運用で企業や市民を苦しめる「悪い法化」(管理型法化)があります。法化社会の進行はもはや止められません。企業も市民も、「よい法化」を遂げることで権利を主張し、悪い法化に法律知識で自衛して立ち向かう、そういう備えが必要な時代になったのです。

 

個人も自らが防衛して法化に対応しなければ、社会はお上にコントロールされるだけの法化社会になってしまいます。その自衛の拠り所として会社はもちろん、地域社会や学校、家族などでの結びつきをもう一度見直してみてはどうでしょうか。孤立化して行き場が無くなった個人を受け止め、日本がエネルギーを取り戻すためにも、中間集団を再構築する方策を探ってみることも有効だと思います。

 

鞆の浦湾の埋め立に対し差止請求をした事件に象徴されるように、平成17年の行政事件訴訟法の改正は、市民に行政訴訟への窓口を広げました。このような本格的な行政訴訟に取り組まないまでも、市民の「権利行使の道具」として現実的に利用できそうなのが「情報開示」と「住民監査」の二つの制度です。

 

「情報開示」は自治体レベルでは1980年代から条例で認められてきましたが、平成13年4月の情報公開法によって行政機関に対し情報開示を求める権利が認められました(独立行政法人に対しては平成14年10月から)。これは開示拒否できる例外があるものの、行政文書を「原則開示」とし「何人」も開示請求できるとしており、その不開示に対してはさらに行政事件訴訟法による情報公開を裁判所に求めることができるので、かなり強力な市民の権利です。 「住民監査」は地方自治法によって、地方自治体の住民が自治体の違法又は不当な支出や財産管理に関して、自治体の監査委員に対して監査や是正を求めることができるとするものです。そして、その監査結果等に不服があるときには、その違法または不当な行為の差止めや関係職員等に対する賠償請求の裁判(住民訴訟)ができるという仕組みです。

 

消費者としての自立からさらに進んで、住民から行政への「権利行使の道具」として法が利用できるようになれば、行政や政治に権利行使を主張して、法化に参加し市民の立場で「法化」の流れを変えることができるようになるのではないでしょうか。

 

三 中間集団による「管理型法化」からの自衛策

1 「孤立化する市民社会、3万人の孤独

自殺者の数は、景気回復が進んだことから平成24年から平成26年の2万5427人まで減少してきましたが、平成10年から平成23年までは14年連続で3万人を超えていました。また、誰にも看取られず、身柄を引き取る縁者もいないまま亡くなる「無縁死」を遂げる人も年間3万2千人もいます(NHK平成21年1月放送)。地縁、血縁、そして社縁(会社の縁)を無くした人が増えているのです。我々弁護士は、会社の倒産処理の過程で経営者の自殺に遭遇することがあります。先日も「自殺すれば保険金が入るから、それで会社の負債の後処理をお願いしたい」という社長が事務所に見えました。「借金で死ぬなんて、あまりに命が勿体ないですよ」と彼には思い留まってもらいましたが、そのときにも最も彼の心に響いたのは「あなたが自殺すれば、家族は『どうして私が止められなかったか』という思いに一生苛まれるのですよ」という説得だったのではないでしょうか。家族や身近な者がいなかったらどうなっていたのか、そういう人にブレーキはないのではないか、という暗澹たる思いに襲われます。

 

  暴行犯の増加も、孤立化の表れではないでしょうか。刑事犯全体の数は平成15年ころから減少を続けていますが、暴行犯の数は、それまで1万件未満だったのが平成12年ころから急増し始め、平成18年以降は3万件を突破しています。また暴行犯の検挙率も平成14~5年は4割弱でしたが以後上昇し、平成20年は約7割にも達しています。検挙数も、平成18年から2万件前後を推移しています。犯罪数の増加は、高齢者の万引き(平成22年は2万7千人で過去最多)、高齢者の殺人(平成22年は175件で前年から32件増)、家庭内暴力(DV)加害者の摘発数(平成22年に3万4329件で初の3万件超え)でも顕著です。これらの犯罪の増加は、家族からも地域からも顧みられない老人や、身近な周囲に援助のない妻の孤立も背景にあるのではないでしょうか。かつては周囲の他者に配慮し、身近な人々に思い遣りを持って接してきた日本人の暮らしぶりは、明らかに変質しています。ふつうの人がすぐキレることの象徴とも言える暴行犯の増加も、人々に、地域や職場、あるいは家庭で希薄になった人間関係がもたらすうっぷんが溜まり、ちょっとしたことで他人に怒りを噴出させるような機会が増加したことが一因だと思います。ですから、これも多くの人が孤立した生活を送るようになったことと無縁ではないでしょう。

 

「無縁社会」を特集した「週刊ダイヤモンドの記事」(2010.4.3)によれば、OECDの2006年の調査データで「友人・同僚・社会(宗教・スポーツ・文化グループ)・家族とのつきあいがあるか」との問いに対し、「めったにない」「まったくない」と答えた日本人の割合は15.27%とOECD諸国の平均6.7%と比較して2倍以上の多さで、アメリカの2.93%と比べると何と5倍以上の開きがあります。また、国民一人当たりの所属団体数も、日本人は1つ未満でOECD諸国の平均1.5を大きく下回っています。アメリカ人は3個以上の団体に所属していますから、日本人はその3分の1以下で、この結果も日本人がいかに集団的生活を失い孤立した人生を送るようになってしまったのかを顕著に示しています。

 

そして、このような社会では先述したように当事者間での話し合いや、地域の有力者の仲介によってもめごとや紛争を解決するための共通の基盤が失われています。行政も、良識や周囲の協力を当てにした姿勢では、もはや事件を取り締まれない、と見切りをつけました。例えば、警視庁が駅員への暴力取り締まり強化を打ち出したように(平成24年9月)、今や行政は法を厳密に適用することで、事態の解決に臨みます。無縁社会では、もめごとや被害が発生した場合、「お上」が容赦なく法律を適用して解決、あるいは摘発するという方法しかありませんから、それゆえに「お上」による社会の法化が進んでいるのです。結果として、無縁社会で孤立した個人はただ規制されるだけの対象となり、個人はますます無力化するばかりであると言えるでしょう。なんらかの中間集団を再興する試みが必要だと思います。

 

2 新自由主義がもたらした「閉塞感」 

1980年代からの世界的な潮流として、R・レーガン米大統領(在位1981-1989)やサッチャー英首相(同1979-1990)、日本では中曽根首相(同1982-1987)など新自由主義を信奉するリーダーが登場しました。その結果、日本でも次々に規制緩和・民営化が始まり、平成9年の行政改革会議提言による省庁再編・民間機関への行政事務の移管、平成13年からの小泉構造改革と展開していったのですが、皮肉なことに、とりわけ日本がアメリカの新自由主義に倣ったこの10年ほどの間に、日本は、目指した社会とは裏腹の、規制強化に苦しむ不自由な社会になってしまったのです。そして、その原因は社会の法化によって「官」の力があまりにも肥大化したからです。

 

こうした、社会の法化による日本の閉塞感を打破するには、企業や市民が「公共性」を自分たちで体現し、「官による法化」に依存せざるを得ない現状を打破しなくてはなりません。今や、家庭や学校という、本来法律と関係なく営まれていた生活分野の隅々まで法律が厳格に適用され、そのことで、自由な日常生活が営まれていた「生活世界」すらもが「管理型法化」によって法律に支配されるようになりました。そうした、法に支配され、法化によって「植民地化」され抑圧された状況下から、本来の生き生きとした「生活世界」を取り戻すには、そこに生活している人々が「公共の議論」を展開し、その論議の成果を踏まえて「生活世界」においても自ら積極的に公共性の実現を目指すことが不可欠だ、というハーバーマスの指摘は我々日本人にも大変参考になるのではないでしょうか。

 

3 公共性を取り戻す場をつくる

「公共性」を市民に取り戻すためには、どうすればよいのでしょうか。一つは「官」の下請けでなく、民間の立場で「公共性」とは何かを明確にすること。もう一つは市民が積極的に「公共性に関わる場」を設けることではないでしょうか。

 

「公共性」には「公的である」「共通のものである」という意味もありますが、齋藤純一は「公共性」には「開かれている(公共圏)」という意味があり、この「開かれた」とは「同質性・閉鎖性を求めない共同性と排除・同化に抗する連帯である」と説明しています(「公共性・思考のフロンティア」岩波書面)。この考えこそ、市民の立場で掲げるべき「公共性」の理念であって、法化社会で中間集団が備えるべきは、この「開かれた」という公共性ではないでしょうか。

 

中間集団が、社会に「開かれて」いるためには、集団の外の、社会の普遍的ルールである法律に適合していなくてはなりません。かっての日本的経営の企業には求心性があり「帰属感」は強かったかもしれませんが、それは山岸俊夫が批判するような、身内だけをひいきする「やくざ型」「集団的秩序」であり「共同体の紐帯」で個人を縛り付けるだけのものでした(「安心社会から信頼社会へ」中公新書)。これでは中間集団メンバー同士の「連帯・相互扶助の意識」は生まれません。中間集団が社会に「開かれた」ものになるには、集団の外のルールについて共通認識を持つことが必要です。さらに、中間集団のメンバーが集団内での討議を通じて法律知識を深め「法の知」を磨けば、その中間集団が「公共性」を備え、社会全体のルールに対する意見も発信できるようになると思います。

 

そして、そのような公共性を議論し、身につける場こそ「コミュニティ」ではないでしょうか。広井良典(千葉大学法経学部教授)によれば、コミュニティの要素は「帰属感」と「連帯・相互扶助の意識」であり、コミュニティとは「帰属意識と連帯・相互扶助の意識が働く集団」とされます(「コミュニティ・双書持続可能な社会へ」勁草書房)。中間集団にこのようなコミュニティの要素がありますが、さらにそこで「公共性」の議論が深められ、公共性を備えれば、その中間集団は市民の視点から、社会の外に向かって、法の規制の在り方を問いかけ、権利行使を呼び掛けることができるのではないでしょうか。

 

それこそが公共性を備える中間集団「法化対応のコミュニティ」として、その公共性によってコミュニティの外へも市民間の連帯を広げ、官主導の「管理型法化」に対抗する力となりうるのではないでしょうか。

 

4 「法コミ」による自衛と権利行使 

法化社会対策として、道具として使えるように法知識に精通することと並んで必要なことが、このように「公共性」を備えた「法律を意識し法律を議論する中間集団としてのコミュニティ」つまり「法化対応のコミュニティ」(略して「法コミ」といいます)です。日本人はもともと団結を大事にし、中間集団を形成したときに能力やエネルギーを一番発揮できました。法化で強大化するお上へ対抗するために、この中間集団の特性を生かすことが有効ではないか、と私は考えます。

 

「法コミ」とは、法化社会で自立して生活するには法の理解が必要不可欠だという認識を共有できる「中間集団」のことです。もはやお上に温情は期待できませんし、かといってむやみに他者を攻撃する非社会的な個人を説得して道徳的に教化しようとするのも無理な話です。

 

法化社会での現実的な自衛策は、こうした「法コミ」としての集まりを作ること、あるいは身近な中間集団を法化対応させることです。パターナリズムからの脱出は、こうした形で個人主義も克服しなくては達成できないでしょう。

 

ハーバーマスは「法的共同体の全員の討議によって合意が出来た法だけが正当である」と指摘していますが、我々みんなが日本での法の正当性を支えている「法的共同体」のメンバーなのです。我々がこういう自覚をもって「社会の規制や市民の権利はどうあるべきか」という議論を積み重ねていけば、市民の小さな「法コミ」の影響力が日本全体の「法的共同体」にまで拡大し、我が国の、法律の成立と執行という場面にまで市民が積極的に参加することに繋がっていくのではないでしょうか。

 

四 「法コミ」を創ろう、「法コミ」にしよう

1 どこに「法コミ」を見出すか

さてでは、市民生活の中で「法コミ」はどこに見出せるのでしょうか。それに相応しい中間集団は、職場の仲間や労働組合、その他にも身近な地域や学校、クラスメート、同窓会、子供の父兄会などの集まりでも作れるのではないでしょうか。

 

私は、後述するように社会人大学や勉強会・読書会などの「新たな知の場所」で「法コミ」がつくれるのではないか、と期待しています。

 

法化は皆さんの身近な日常にも押し寄せてきています。ちょっと考えれば日頃の生活でも「こんな規制があるのか!」「どういう権利を、どう行使できるのか」といった法律問題に遭遇する筈です。そういう法律問題を「お上まかせでいいのか」と話題にするだけでも「法コミ」への道が拓けるのです。

 

企業こそ「法コミ」にならないと、規制強化の嵐に翻弄されるだけの集団になってしまいます。企業は、内部の人々同士が「法化社会での自衛策としてコンプライアンスが必要だ」という共通認識を持つ中間集団になることが必要です。労働組合と企業の関係も、コンプライアンスを重視する「法コミ」同士の関係として考えねばなりません。

 

法コミのメンバーとなるには前に述べた通り「公共性」に関心を持つことが肝心です。市民生活の自由を「官」が規制する根拠は、国や社会など共同体の利益を尊重すべしとする「公共性」です。ある規制が適切かどうかを議論するには、その規制の根拠となる「公共性」とは何なのか、「公共性」と「規制」の関係はどうあるべきかを自分たちで考えることから始めなくてなりません。それには前述した「同質性・閉鎖性を求めない共同性と排除・同化に抗する連帯」という「開かれた公共性」という考えが参考になります。そうして初めて、過剰な規制に対する反論ができますし、また「公共性」を意識することによって各人の権利主張も利己心による偏狭さを免れることができるようになり、周囲の共感も得て法コミの仲間が拡大していくようになるのではないかと思います。

 

2 NPO法人の活かし方 

「法コミ」は内部的には公正透明な組織であり、他方、対外的にはメンバーを守るという自衛機能が必要です。いわば一方では外敵に備える城壁をもちながら、他方では外部との自由な交流や往来を保障する、自由な城塞都市のような機能を持った組織・集団でなくてはなりません。それは「法的」観点からチェックされることによって可能となるでしょう。「法コミ」として最適だと思われるのがNPO特定非営利活動法人です。 山田由紀子弁護士が代表をつとめるNPO法人「対話の会」(千葉県松戸市)の活動は、被害者と加害者が対話することで更生を目指すという「修復的司法」という取り組みをしていますが、それこそ民間で「自治的法化」を実践している理想的な「法コミ」の試みだと言えます。

 

また企業がボランティア活動をしているNPOを通じて社員教育をしようという損保ジャパン(震災被災地NPOへの派遣)や三菱UFJリサーチ&コンサルティング(鳥獣被害対策のNPOを社員が支援)などの動きも、会社と社会の交流を進め会社を「法コミ」にする働きがあります。

 

NPO法人は平成25年10月末現在全国で約48000あり、一定の基準を満たし税制上の優遇が受けられる「認定NPO法人」は約430です。政府は医療や介護分野でのNPO法人の資金調達を容易にするよう支援しようとしています。確かにNPOという外形を利用した悪質な詐欺まがいの報道も後を絶ちませんが、他方では、被災地に人材を送り込むNPO法人ETIC(エテック)やシニアが公益法人の経理事務などを補助するNPO法人ビージーパートナーズなどのように、定年後にNPO法人に生きがいを求める人も増えていて、これからのNPOが公共性を担って果たすべき役割は大きいと思います。

 

3 「会社コミュニティ」への道

企業という共同体こそ「法コミ」にならないと、規制強化の嵐に翻弄されるだけの集団になってしまいます。企業は、内部の人々同士が「法化社会での自衛策としてコンプライアンスが必要だ」という共通認識を持つ中間集団になることが必要です。労働組合と企業の関係も、コンプライアンスを重視する「法コミ」同士の関係として考えねばなりません。

 

身近な共同体として、「会社のコミュニティ化」を考えるもの無駄ではないでしょう。フランスの社会学者のデュルケムは、孤立化を救う有効な方策として同業者組合を挙げています。それは同業組合が、多くの人が参加し、常にどこでもある身近なものであるからです(「自殺論」中公文庫)。このような存在として日本では身近に「会社」があるのではないでしょうか。しかし、従来の「会社コミュニティ」は個人を縛るだけのものでしたから、そのままでは「法コミ」にはなりえなせん。「開かれた」中間集団とならなければなりません。

 

法化社会において企業は特に、社会と同じルールが適用されるという会社の外側との連続性を意識しなければなりません。企業を取り巻く利害関係人(ステークホルダー)と企業がどのような関係にあり、その関係が法律でどのように規制されているかという知識と情報が欠かせないのです。その点からも企業は、マスコミの報道や行政の対応に気を配り、外側からの視線に細心の注意を払うことを怠ってはなりません。例えばJR西日本が福知山線脱線事故に関し、事故調査委員会へ公表前に情報提供を求めたことが「会社の常識・社会の非常識」と批難を浴びたこと(平成21年12月)など、これまでに他企業が起こした不祥事を「他山の石」とするよう心がけねばならないでしょう。

 

企業の外で進行する社会の法化に目を向け、その認識を企業のメンバー全員が共有することによって、企業自体を法化に適合した集団に変えていかねばなりません。もちろん、企業の個性や独自性が表れた「企業文化」は集団の求心力としても貴重なものですから、これを安易に捨ててはいけないと思いますが、企業が従業員を「団体の一員だから」という「しがらみ」によって、社会のルールよりも団体のルールを優先させることはもはや許されないのです。

 

ここでコンプライアンスに誤解があることを一言指摘しておかねばなりません。コンプライアンスは企業の不祥事を予防すると同時に、外部からの過剰な法化による攻撃から企業を自衛する役割も果たしているのです。いたずらに社員を苦しめる枝葉末節にこだわるコンプライアンスは本末転倒なのです。

 

4 「会社コミュニティ」と労働法

さらに「法コミ」としての「会社コミュニティ」には健全で自律的な労使関係が不可欠です。そのためには労働法順守が実現しなくてはなりません。

 

我が国の労働政策は平成18年ころ、それまでの規制緩和から規制強化へ事実上転換されました。折からの百年に一度の大不況で、派遣労働者の切り捨てが進み、ますます労働者の終身雇用や年功序列賃金への安定志向が顕著になり、政府の労働政策もそれに沿ったものが求められるようになってきたためです。

 

我が国では憲法の要請する労働者の保護は、雇用機会の保障(職安法、雇用保険法など)、雇用関係の安定(労働基準法、労働安全衛生法)、団結権(労働組合法)など、法律制度としては整備されてきました。これらの労働者保護は従来、法律の建前だけに留まっていると批判されてきましたが、法化の進行は労働保護法をその規程通りに実現しようとしています。労働者が企業という団体に従属的になりすぎる「企業社会」の克服も、法化が掲げる課題の一つでした。

 

労働者としては、労働時間規制の法知識を盾にすれば、上司の身勝手な業務命令にストップが掛けられます。他方で会社側は、もはや利益や効率を言い訳にして労働法を無視することが許されない社会になっていることを認識しなくてなりません。

 

会社は法律上労働時間制限を順守し、労働者に休日や休息を与える義務があるのみならず、労働者が「生命・身体等の安全を確保しつつ労働できるよう配慮する義務」があるのですから(労働契約法5条)、労働者の側からも、会社に対し健康管理に気を配った職場環境を求めることができるのだ、ということを知っておきましょう。

 

以上、説明したように労働法規の順守は、今日の企業経営において、法令違反や社会的非難というリスクを回避するには不可欠なことです。他方では、労働者側も労働法の知識を活用して、労働時間や労災、賃金問題、さらには人事考課や配転などの適正さを含め労働問題を幅広く取り上げて、それを会社側にぶつけてみることが可能な時代とも言えます。 労使双方が法知識を共有しコンプライアンスを理解した上で討議すれば、風通しのよい、だからいって「なあなあ」ではない、真の意味でのワーク・ライフ・バランスが実現する職場になるのではないでしょうか。

 

5 コミュニティと大学・読書会

ここまでの議論は同時に、コミュニティによって日本をどう活性化するか、という問題にも通じます。広井良典教授は、日本社会を読み解く鍵を「コミュニティ」に見出し、日本社会のコミュニティが、一方ではソトという外部に開かれていながら他方ではウチという内部に閉じられた中間集団であり、「公」としての政府と「私」としての市場を結ぶ「共」という新しい機能を担う存在であると捉えています。会社や家族という「共同体」の基盤は経済成長の時代の終焉とともに崩壊し、個人の社会的な孤立が深刻化している。そこで「市場を超える領域」として個人が自立しつつ新たなコミュニティを創造することがわが国の未来にとって中心的課題となるが、ヨーロッパと比べると、わが国ではそのために必要な、政府による社会保障給付の規模が相当低い、というのが広井教授の認識です。そして、ローカルな場から出発するNPOや新しいコミュニティなど「共」的な領域の発展と、政府による再分配など、公的部門の強化を両輪として提案しています。こうした新たなコミュニティには地域の活性化に資することが期待されますし、平成24年6月の朝日新聞で「コミュニティ新生」として紹介されたように、震災後の被災者の仮設住宅での自治会活動や隠岐諸島でのヨソモノが潤滑油となる集落支援など、実際に様々な地域でそうした動きが見られます。

 

また、こうした公共性を議論し実現するコミュニティの場として、地域社会以外に、読書会と社会人大学がその可能性を持っているのではないでしょうか。

 

ハーバーマスによれば、18~19世紀、西欧の市民社会には、ドイツの読書会、フランスのサロン、イギリスのコーヒーハウス、といったように、小規模ながら時の行政を批判的に考察するような討議を行う場がありました。そこでは、政府当局が押しつける公共性に抗い、「市民的な公共性とは何か」が議論されていたのです。その後市民社会は、私生活中心の文化を消費する公衆に変質し、そこにあった市民的公共性も崩壊したというのがハーバーマスの指摘です。

 

たとえば日本の、喫茶店などで文学や哲学を議論する、お酒もなく、出入り自由な会合「ゆるコミ」は、ドイツの読書会を連想させます。また、私が教鞭を取った放送大学の面接授業や立教大学の社会人大学院で学ぼうという場に参加する学生や社会人の方々には、自分の「知」を広げかつ高めて「公共性」を自らのものにしようと意欲が感じられます。社会の法化が進行するこれからの日本では、こういう場で「公共性」の自主的な議論を広げていくことが可能であり必要なのではないでしょうか。

 

6 公共圏の共鳴版

現代の日本では、一方では「悪徳業者」が跋扈し、他方ではそれを征伐するため「お上」の権限の強化が進んでいます。その繰り返しによって法化が進む日本社会では、公共的なことがらを議論し、その方向性を決定する場である「公共圏」を、マスコミと役所が主導しています。その結果、普通の企業や市民は「公共的なもの」からますます遠ざけられ、官の権力が増大し、閉塞感が増しているのではないでしょうか。

 

堺屋太一さんは、今回の東日本大震災を「第3の敗戦」と表現し、「震災前の日本は官僚が強くなりすぎ「楽しくない国」になっていた。震災後は、明治維新や戦後改革のように『それ以前の日本』に戻さない改革が必要だ」と指摘しています(読売新聞平成23.4.12)。日本社会を震災前の規制強化社会に戻さないためには、「公共圏」を、市民や企業など民間の側に取り戻す必要があります。

 

ハーバーマスは、市民が、マスメディアによって掌握されている「公共圏」を取り戻し、その力で社会的な統合を作り上げるためには、「インテレクルチュアルズ」(党派性のない知識人)が公共の議論の場を広げる必要があるが、同時に、市民層が「リベラルな公共圏という共鳴板」の役割を果たすことが欠かせない、と指摘しています。

 

また、歴史的存在である共同体の価値を重視するサンデル教授の「正義論」は、個人の選択の自由を何よりも尊重する伝統的な自由主義の考え方とは一線を画すものです。サンデル教授が今の日本で持て囃されているのは、日本社会という共同体について、その「公共的なるもの」へ市民の側から接近したいという気持ちの表れではないでしょうか。

 

市民のささやかなサークル活動の中で、法律や公共性についての議論を重ねる機会が増えれば、そのことによって各々の市民がハーバーマスの言う「規範的自己理解」(例えば「フォア・アザ―ズ=他人や社会のために働こう」という意識)を身につけて「公共圏の共鳴板」となり、引いてはそれが、公共圏を行政やマスメディアから、市民自らの手に取り戻すことへと繋がっていくのではないかと思っています。

 

7 弁護士の役割と「公共性」

最後に、弁護士の果たすべき役割と公共性について考えてみしょう。紛争当事者の一方にのみ肩入れする弁護士の仕事に、果たして「公共性」はあるのでしょうか。私はあると思います。

 

我々弁護士が扱う紛争事案においてどの当事者も「自分の主張が正義だ」と思っています。弁護士は紛争当事者の一方だけに肩入れしますから、一方が正義なら他方は正義でない方を弁護していることになります。「正義の味方」と自称しても自分勝手な思い込みを正義だと主張していることもある訳です。世の中の紛争はどちらが正しいか、仮に裁判所が判決を下して白黒つけたからとしても、そう簡単に決められない例も数多くあります。しかし法律家が確実になすべきことは「紛争の予防と解決」であることははっきりしています。どちらが正しくても(それぞれがそう思い込んでいる場合は特に)紛争はおきますが、紛争の場に確実に存在するのが「相手への悪意と敵意」です。 法律家の役割は、紛争の予防や解決を通じてその悪意と敵意の解消・減少に寄与することだと思います。一方が百パーセント正しい場合は紛争になりません。不利な方でも必ず言い分があります。弁護士は依頼者のそういう言い分を汲み上げ、裁判所での解決が少しでも依頼者に有利になるよう働くのが仕事です。双方の弁護士が精一杯闘って判決などで結果が出れば、当事者の悪意や敵意は少なくとも減少すると思います。これだけでも弁護士の仕事は十分「公共性」があるのではないでしょうか。

 

さらに重要な弁護士の仕事は、市民の、あるいは企業の、中間集団としての「法化対応」を手助けすることです。市民や企業という中間集団に「盾」と「矛」として、「道具としての法知識」を提供し、中間集団のメンバー一人ひとりが法化への態勢を確立すること、それに積極的に関わることが法化社会で弁護士が果たすべき役割だと思います。

 

完 以上

 

 

2015/06/19(金) カテゴリー:論考

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