閉塞社会の完成【著者 弁護士 西尾孝幸】

一 司法制度改革「法化」で得たもの、失ったもの

1 今回の司法制度改革と過去二回に司法制度改革の違い


今回の司法制度改革は、明治維新、戦後改革に続く近代日本では3度目の大きな取り組みでした。規制緩和による自由競争社会では、公正さを維持するために事後規制が必要だということで社会の「管理型法化」が推進されました。司法制度改革も同時に「自立型法化」と「自治型法化」という「法化」を進めましたが、この面は大きく進捗したとは言えません。

 

過去2回の大きな司法制度改革には、明治維新による近代化、敗戦による民主化という大きな社会構造の転換を支える役目がありました。そこでは当時の国民や社会を「法化」しようということが課題になることはありませんでした。それに比べ、今回の司法制度改革は、法化を進めて「この国のかたち」を変えよう、というものでしたから、過去2回とくらべて性格が大いに異なっています。

 

しかも「この国のかたち」を変えようと構想された構造改革は見直され、司法制度変革によって司法制度を構造改革後の社会に適合させようという要請は、根拠が薄弱となりました。また「国民参加」という司法制度化改革の意義も薄れてしまいました。しかし、日本を法化社会へと導くべきだという大義名分はそのままで維持され、結局「管理型法化」だけ進んでしまったのです。

 

大きな改革が行われると旧いものが失われ、その代わりに新しいものが得られます。しかし、いくら旧いものが時代遅れになったから改革が実行されるといっても、改革によってそれらが失われることも確かです。ですから、改革によって得られるものに失われるものより大きな価値があり、その結果が国民に利益をもたらすものでなければ改革を実行すべきではないでしょう。

 

今回の司法制度改革と構造改革をきっかけとした「法化」によって、中間集団における「和」の尊重と寛容を大事にする従来の日本人の価値観が失われつつあります。では代わりに国民は何を得たのでしょうか。

 

明治維新は黒船の来航がきっかけとなって起こり、敗戦後の改革はGHQ(連合国軍最高司令官総司部)の指導で実現したものでした。どちらもアメリカからの圧力が日本を「開国」させて始まった改革です。そうした明治維新の近代化および敗戦時の民主化でも、失ったものとその代わりに得たものがありました。

 

明治維新という第一の開国で日本は、文明開化の政策を推進し西洋の司法制度や技術などを取り入れました。文明開化によって、明治維新前後に日本を訪れた外国人が称賛していた「古きよき日本」(自然のままで手付かずだった田園風景と素朴で細やかだった人情の世界)の姿は崩れていきました(渡辺京二「逝きし世の面影」平凡社ライブラリー)。しかし、それと引き換えに国民は便利な生活を手に入れました。そして、敗戦後の、アメリカが主導する民主化、という第二の開国で始まった改革では、「家」制度が封建的であるとして廃止されました。家制度には大家族が共同体として助け合い、家長が共同体の責任者としてそのメンバーを保護するというプラスの面もありました。国民はその家制度を失った代わりに民主的で個人が尊重される生活を手に入れたのです。占領軍による「強制された民主主義」でも、国民から好意を以て受け容れられました(ジョン・ダワ―増補版「敗北を抱きしめて」岩波書店)。
そしてその際の司法制度改革は、前提となる近代化や民主化という大きな社会変革に必然的に付随する変革でした。

 

今回は司法制度改革と法化は、やはりアメリカからの規制緩和の要請から始まった第三の開国とも言うべき改革でした。この第三の開国がもたらした司法制度改革と法化によって日本は厳罰化社会となりました。その弊害として日本人の「和」を尊重する気持ちは薄れ、日本社会は不寛容でぎすぎすした社会になりつつあるといえます。では国民は、代わりに何を得たのでしょうか。

 

2 法化で国民が得た利益はあるのか


この10年で日本では法化が進行し、「法の支配」の及ぶ範囲が拡大しました。しかし、それによって国民はどんな利益を得たのでしょうか。確かに一時的には司法制度が国民にとってアクセスの容易なものになりました。また、「自由競争社会での自立の武器」として消費者契約法を始めとする諸々の法律が制定され、様々な権利が国民に与えられました。

 

これらの権利と司法制度を活用して、国民が自立できる仕組みができあがっていれば、法化の進行は国民に大きな利益をもたらしたと言えるでしょう。しかし法律制定と弁護士数の増加だけでは、日本は国民が十分にその権利を活用できる社会になったとはいえません。司法制度を活用できない状態では国民も「利益があった」とは感じられないでしょう。明治維新による文明開化も戦後の民主主義もやはり「お上」から与えられたものですが、少なくとも国民には「利益を得た」という実感はあったのではないでしょうか。

 

それに比べ今回の法化による改革では、失ったものを上回るような価値あるものや利便さを国民が手に入れたとは到底思えないのです。

 

3 過剰な規制に苦しむ国民


規制緩和が目指した「自主自立」・「自己責任」の社会は実現せず、かえって安心安全の価値を希求する国民の不満を招き、結果として事前規制の再強化による緩和の見直しを余儀なくさました。しかしそうした事前規制の「再」強化は、既に強化された事後規制を見直すことなく行われたため、企業や市民活動は予測のつかない規制発動の危険に晒されるようになりました。「超」規制社会化した「法化」社会は、法知識の有無が多大な格差を生じ、格差によって翻弄される「歪んだ法化格差社会」となってしまったのです。

 

トイプナー(ドイツの法社会学者)は、法律による規制が行き過ぎると社会にジレンマならぬ「トリレンマ」が生じると警告しています。トリレンマとは、①守るべき法律や条文の数が膨大になりすぎて、結局どれも守られなくなる、②法律が社会生活の全領域に入り込み、経済活動や生活分野が法律で必要以上に縛られ、自主的な活動の余地が極端に狭められてしまう、③複雑な法律が多数の系列で制定され、その系列間で矛盾が発生し、法律制度全体が統一性を欠くものになる、この3つのいずれかの弊害が生じる、というものです。日本では行き過ぎた規制のためにすでに②の弊害が見られて始めているのではないでしょうか。

 

法律によって「自立の武器」として権利を与えても、国民にはそれを活用して使いこなすような下地がありませんでした。構造改革路線が破たんした結果、行政は法化を進める前提となっていた自由競争を奨励する政策も撤回して自由競争自体を制限し始めました。弁護士数増加は抑えられ、行政は「パターナリズム」(家父長的温情主義)を推し進め、国民に「自立の武器」を用意する方針は後退してしまいました。
自立への道からも遠ざけられれば「お上」に抵抗する力は、一部の法化した市民を除き、国民にはもうほとんど残っていません。「規制緩和」と「規制強化」の揺り戻しの往復で、「法の支配」というスローガンは、お上(政府・行政)の権力を増すだけの結果となったのです。

 

 
かつての日本には、人々がお上を信頼しその権威を尊重するという「権威主義」があり、またお上の方も村や家という中間集団を尊重したため、人々を苛烈に弾圧するのは極めて例外的な場合でした。お上自身も中間集団と一体となって全体が「集団主義」の中に包まれている、そういう調和のとれた社会でした。その伝統が、行政指導を尊重し会社など中間集団を重視するという日本社会を作ってきたのではないでしょうか。家族や地域でのそれまで密接だった人間関係がだんだんと薄れていった結果、日本社会は「集団主義」から「個人主義」の社会に変貌していきましたが、法化がそれに拍車をかけました。「個人主義」は「権威主義」に到底太刀打ちできません。こうして法化の進行とともに行政による「権威主義」が猛威をふるい始めています。

 

二 労働の価値と消費の価値の逆転

1 働くことの価値


かつての日本では国民に「国のために働く」という意識が今日より強く、一人ひとりの労働の目標と国の政策はおおむね一致していたと言えます。明治維新での国策は、西欧社会に追い付き追い越そうとした富国強兵と殖産興業でした。戦後の日本は経済復興と高度経済成長という目標を掲げて、勤勉な国民が真面目に働くことでその目標を実現してきました。労働は会社や家族・郷里という身近な共同体を豊かにし、ひいては国の繁栄をももたらしてきたのです。国民は共同体への奉仕としての労働に自信と誇りを持っていました。

 

労働はそれ自体で価値がある、共同体のために働き続けられることが大事だ。こうした日本人の価値観は、しかし、規制緩和と法化の進行で崩されてしまいました。 

 

2 規制緩和が求めた消費社会


労働の価値が崩壊したのは、日本が「消費社会」に変質したことが大きな要因でしょう。アメリカによる規制緩和の要請に応じて自由競争を推し進めた日本は、消費を労働より優先する「消費社会」になってしまいました。

 

1980年代からの日米構造協議でアメリカ側は、生産性優位の敵対的貿易国家だ、と日本を非難しました。アメリカ人は労働よりも消費を優先する生活を送っています。これに対し日本人は、働くこと自体に価値を見出す国民でした。構造協議を通じてアメリカは、日本の消費者のためだという大義名分を掲げ、アメリカ流の「消費は美徳なり」という価値観を日本人に押し付けてきたのです。

 

そしてそれを受け容れた日本は、自家用車や電化製品を短期間で次々と買い換えるという、過去の本家アメリカをはるかにしのぐ過度な消費社会となったのです。

 

消費は一人ひとりの好みと選択でなされる、とても個人的な行動です。また、規制緩和によって自由競争を進める社会では個人の自由な選択が尊重され、団体の活動はそれを束縛するものとして制限されます。「消費社会」化した結果、日本は共同体より個人が重視される社会になってしまいました。

 

3 給与額だけで評価される労働


もともと労働には、働いた対価の一部を会社に預けるという側面があります。労働者が働いた分の対価をすべて給料で回収し尽したら、会社に残るものは何もありません。労働には、その対価である給与の一部を会社という共同体の将来のために預けようという気持ちが、労働者に「働きがい」を感じさせるという側面もあったのではないでしょうか。

 

消費社会では、支払う代金と手に入れる商品の交換が、消費者にとって「有利」な取引関係となることが求められます。労働についても消費と同様、給料という労働の対価を受け取る場面で「有利」であることが最優先され、労働者は給料でなるべく「有利」に労働の対価を回収し尽そうとします。労働の対価としての給料が労働者にとって有利なものになっているかどうかということが、労働政策の中心的な課題としても議論されるようになってきました。

 

労働についての規制緩和策は大量の非正規社員を生み出し、多数の労働者を低賃金と不安定な地位の職に追いやりました。その弊害を是正するために長時間労働対策や雇用の安定へと政策を転換せざるを得なかったのは、当然の成り行きといえるでしょう。その結果、現在の労働政策は、給与や労働時間という個人の待遇改善に関心が集中しています。しかし、規制緩和策が労働の共同体(会社)への奉仕という価値を低下させたことも見逃せません。

 

三 告発社会が壊した中間集団

1 告発をすすめる法化の進行


公益通報者保護法(平成18年4月施行)や独禁法のリ二エンシー(平成18年1月施行)は告発を奨励して、団体内部の違法行為があれば公にするよう団体内の人々に働きかけます。その結果、法律の効力がそれまで外部へは隠されていた団体内の違法行為にまで及び、法化が促進されます。

 

公益通報者保護法は、企業内に法化を浸透させるために企業自身が率先して内部告発を奨励するよう求めている制度です。三菱自動車や雪印食品の不祥事は、従業員の内部告発や取引業者の告発によって表沙汰になりました。身近で違法な行為を目撃した企業内部の者が当局に告発すれば、企業側はもはや不祥事を隠し通すことができません。摘発する行政側も証拠集めなどの手間が省けて、処分が容易にできます。

 

行政に違法行為を告発するケースも多くなりました。ネットでの違法行為の通報件数は平成20年に前年比59%増の13万件5千件となり、平成22年には17万5千件と、その更に3割以上も増加しました。独禁法違反の一般からの報告件数も、平成20年度には1万3353件と平成17年度の5倍にもなりその後も毎年1万件を超えています。また、食品表示の告発件数は平成19年6月から9月にかけて1241件(前年比2.7倍)と激増し、その後も平成20年度は2万6千件、平成21年度は2万七千件と高い数字を維持しています。このようにどの分野でも、近年は違法行為の告発が激増しています。かつての国民の生活には自分の周りの人々をよく知っていて、その人々と日々の暮らしを通じて連帯しているという安心感がありました。これらは、そうした安心感が失われ、身近にいながら素性の知れない他人の違法行為によって自分や社会が被害を受けるのではないかという不安感が高まっていることの表れと言えるでしょう。しかし、こうした変化は国民に重大な損失をもたらしたことも事実です。

 

兵庫県小野市では平成25年4月、パチンコ・競輪・競馬など不正受給者告発を市民の義務とする条例が全国に先駆けて制定される、という事態まで生じています。

2 告発と監視が進む法化社会の行方


こうした告発は、行政に「何とかして欲しい」と摘発や処分を求めるものです。告発による情報提供があれば、容易に事後チェックや行政処分ができますので、お上も告発は大歓迎です。国民が告発に精を出せば「お上」の摘発は進むでしょう。しかし、それは一方では「お上頼り」の傾向を強め、「お上」の権威をますます高めます。

 

事後チェック型社会では、監視体制も強化されました。その典型がインサイダーの規制です。内部情報(インサイダー情報)を入手した者だけが、抜け駆け的に株式を売買して大もうけをしたり、あるいは、自分だけが損を逃れたりするのは不公平です。それを禁止したのがインサイダー規制です。平成19年に佐渡賢一元特捜検事が証券取引等監視委員会(SEC)委員長に就任し、SECの組織と権限が強化され、インサイダーが相次いで摘発されるようになりました。さらに平成21年1月からはSECなどの規制当局と全国の証券取引所・証券会社を直接つなぐ専用回線「コンプライアンスWAN」がスタートし、不公正な株取引に対する監視システムが強化されました。また平成22年4月、金融庁とSECは大手証券グループへの監視も強化することにし、株式取引はますます厳しい監視下に置かれることになりました。

 

不自然な株の値動きや大量の取引は、監視委・証券取引所・証券会社にチェックされます。匿名性が高いと思われがちなネット取引ですが、売買記録はすべて残ります。SECはインサイダー情報の利用が疑われる不自然な株式の取引があれば、取引をした本人だけでなく家族関係・知人関係まで踏み込んでインサイダーに該当する人がいないか調査します。社員の妻(カルピス)や夫(ベルーナ)、あるいは弟(日立製作所)などがインサイダー取引で摘発されています。検察による事後チェック型の法化が、私的な家族間の会話にまで及んでいるのです。

 

3 告発と監視による団結の喪失


企業内の結束というような中間集団の「和」は、不祥事を隠ぺいするおそれがあります。内部告発はそうした隠ぺいを暴き、不祥事防止の役に立つといえます。しかし、告発の奨励は、一方では庇いあうことや「和」、団結を大事にする気持ちを構成員から奪ってしまいました。

 

加藤周一は、忠臣蔵が日本人に人気のある理由はその忠誠心ではなく日本人の集団主義にある、と分析しています。赤穂浪士四十七人は、主君の仇打ちを果たして切腹するまで、全員で結束を守り通しました。その団結が集団への帰属感を大切にしてきた日本人の共感を呼ぶのだと思います。農耕民族は、季節の変化に応じて、みんなで一斉に農作業をするので、お互いの協力が不可欠です。団結して仲間として働くことで日本人はエネルギーを発揮し、それが和の尊重と団結重視の伝統を創ってきたのではないでしょうか。

 

日本人の日ごろの暮らしは、おもに、地域の村や家族・親戚など身近な中間集団のなかで営まれていました。日本人はその仲間内で寛いで暮らしていました。郷里の村を出て都会に来てからも、同じ郷土や学閥同士で「第二のムラ」といわれる群を作りました。そういう寛げる仲間意識が都会でも求められたのだと思います。

 

会社という中間集団には、「第二のムラ」と同じように仲間意識を育てる大事な役割がありました。人を大事にする会社とは、仲間として受け入れた社員が寛いで働けるような環境をつくる中間集団のことだったのです。日本企業が世界に躍進したのは、マニュアルによる効率化によってではなく、QCサークル(職場ごとの小集団での品質向上の取り組み)活動のように、少人数の集団が仲間となり、協力しあって品質向上を実現してきたからだということができるでしょう。

 

4 競争嫌いを支えた団結の価値も下落


規制緩和策は、自由な競争が国際競争力を強化しグローバル化した世界経済の中で日本が生き残る道だという理念を基に、個人の自由な起業や企業間の競争を奨励します。自由競争社会では、会社内の団結や業界団体内部の結びつきは、共同体のしがらみを強め自由競争を邪魔するのでないかと敬遠されます。

 

大竹文雄(大阪大学教授)によれば、日本人はもともと競争することや、競争による不公平が生じることを嫌がる国民です。勤勉より運やコネの方が大事と考える日本人の割合が1990年の25%から2005年には41%と近年高まっており、特に29歳以下の若者では44.6%に達していて、これらは市場競争のメリットを教えてこなかった学校教育の問題ではないかと大竹教授は警告しています(大竹文雄「競争と公平感」中公新書)。しかし、競争心が強くない国民なのに、日本がこれだけ驚異的な経済発展を達成できたのは、ひとえに集団主義によって労働それ自体の価値を尊重してきたからではないでしょうか。孤立してバラバラになった個人の国民性が「競争嫌い」であれば、日本が国際競争社会から脱落するのではないかとの危惧が生まれるのも当然でしょう。

 

5 仲間としての信頼感の喪失 


つい最近まで中央官庁と地方の役人はひんぱんに協議し、中央と地方で行政における法律運用の統一を図ってきました。意思決定を事前に調整するタイプの日本社会では、多数の関係当事者がものごとを円滑に進めるには、中央官庁と地方の役人同士、官庁と業界団体の間、あるいは業界団体内部で、事前に意見を交換することが必要不可欠な手続きでした。例えば接待で相手のホンネが判れば、「仲間だ」という連帯意識と信頼感を持つことができます。仲間内同士なので、安心して仕事にまい進できたのです。税金のバラマキであり無駄使いだとして廃止された「官官接待」(役人同士の接待)も、まず仲間となることが大切だ、という意識が強かったからこそ盛んに行われたのでしょう。

 

それが今や、法律は建前通りに運用されるので、それぞれの役所が法規集を睨んで判断して、それぞれの考えで業務を進めることが基本となりました。法律に精通する度合いは中央と地方の間はもちろん、地方同士でも異なります。中央官庁がどこまで厳しく法律の適用を求めるのか、その本音も分りません。仕事をスムーズに進めるには仲間としての信頼感の上に立って意思疎通ができることが大事ですが、そうした信頼感を育むための機会も少なくなってしまいました。

 

6 NPO活動消滅の危機 


このような新たな規制強化策によって、ボランティア活動も減速を余儀なくされています。NPO(特定非営利法人)は特定非営利活動促進法で平成10年から認められた制度です。公的な社会活動の分野を民間に開放し、市民の自由な参加を促すという、規制緩和時代にふさわしい制度です。しかし、規制強化がその発展に立ち塞がっています。

 

NPOバンクとは、市民が市民から集めた資金を原資にして、社会的な事業に融資する非営利な仕組みです。平成15年に設立された東京コミュニティバンクは資金規模1億弱で、融資残が3300万円ですが、全国10団体ほどあるNPOバンクは出資金総額5億7千万、融資累計約25億円という規模にまでなっています(平成24年3月現在)。新しく事業を興そうとする場合はそれがどんなに社会的意義がある事業でも、これからという小規模な事業には通常の金融機関はなかなか融資をしてくれません。そういう事業に資金を用意してくれるのがNPOバンクの活動です。これは社会を活性化する面でも大きな意義があります。しかし、平成22年6月に全面施行となった改正貸金業法の規制が大きな障害となっています。NPOバンクは、アメリカ・コミュニティ開発金融機関やマイクロファイナンスで世界的に注目を浴びている公益的な活動です。民間での公共的活動を積極的に促進し日本を元気にするためも発展させなくてはならない分野です。金融庁は貸金業法の例外として認めましたが、例外の要件は厳しくなり今までのような活動は制限され、将来のNPOバンク事業の広がりは望むべくもありません。

 

また、障害者や要介護者を車で送迎するNPO活動も存亡の危機にあります。この事業は平成18年に例外的に許容されるようになりました。しかし、タクシー会社への配慮等もあり、皮肉なことに法律的に正式に認められたことでかえって規制が厳しくなった地域が現われてきました。平成21年3月の時点で、石川・東京・愛知ではこのようなNPO団体が2年前と比べて10以上消滅しています。特に石川県では49あったNPO団体が33と3分の2に縮小しました。法化による規制がボランティア活動も委縮させているのです。

 

民主党政権(当時鳩山首相)は平成22年4月「新しい公共」を育てるとしてNPOへの寄付に優遇税制を適用する政策を打ち出し、平成23年6月からは、認定されたNPOへの寄付が税法上優遇されることになりました。しかし、全国にある約4万3千団体(平成23年6月現在)のNPOのうち3割が自治体や企業が設立したのもので、内閣府の調査では寄付は平成21年のNPO収入の4%に過ぎません。また、寄付金を1円も集めていない団体が55%もあります。市民が寄付しようにも評価データもないのですから、NPOを身近なものとしても活用しようにもそれができないのが現状です。これままでは日本に活力が生じるはずがありません。

 

NPOの活性化は、日本社会に活力を産むためには欠かせないことだと思います。

 

四 お上依存症と官民格差の拡大

1 弱者保護と法化される家庭


社会的弱者を保護するためと称して、法律がどんどん家庭の中に侵攻して来ます。平成20年1月に85歳の父親の世話を放棄した43歳の娘が、市職員の立入調査を妨害して逮捕されました。高齢者虐待防止法(平成18年)が初適用された例です。高齢者虐待は年々増加し、近年も4年連続で増加しており、平成22年には1万6千件平成20年は1万5千件にもなりました。

 

また、児童虐待防止法(平成12年)は平成20年に児童相談所が家庭に強制立ち入りや出頭要求ができるように改正され、平成22年度の親への出頭要求は50件と前年の倍以上です。児童虐待相談は平成22年度には前年から1万件も増加し5万5千件となり平成20年で4万2600件・21年度4万4000件もあり、警察の摘発も、平成24年472件、平成23年398件・平成22年354件(前年比6%増)307件と増加し続けています。そして平成23年5月には虐待親の妨害を排除するために最長2年間親権を停止できるよう民法改正がなされました。児童虐待の事態は、それほど悪化しているのです。

 

高齢者や児童などの社会的な弱者は、今までは家庭や地域という中間集団の道徳意識に支えられ保護されてきました。ところが今では、その道徳観に頼っての救済ができる余地はなくなり、弱者保護も「お上」の法律による強制的な手段に頼らざるをえなくなったのです。法化がここでも家庭の中にまで入り込んでいます。

 

法化だけが家庭崩壊の主な原因だとは言えませんが、両者が表裏一体となって進行していることは確かでしょう。家族関係が壊れてしまい、行き場の無くなった青少年が疑似家族としてのカルト(狂信的宗教集団)に走る、ということがアメリカでは社会問題になりました。日本でもカルト集団が家庭崩壊に乗じて拡大していくのではないか、そういう危惧もあながち杞憂とは言えないのではないでしょうか。崩壊した家族に代わる健全な受け皿として新しいコミュニティを作る試みも必要だと思われます。

 

2 個人情報保護法と法化の「官民格差」


平成17年4月に個人情報保護法が施行されてから、同窓会名簿が作れないという過剰反応や、不祥事を起こした役人の名前も個人情報だという理由で明らかにしないという不都合な事態が起きています。ここでも法化が「民」に必要以上の「おそれ」を抱かせ、逆に「官」は法化を利用して保身を図るという「官民格差」が生じています。

 

個人が「自分の情報を勝手に使うのは個人情報保護法に違反する」、と企業に苦情を申し出る例も増えました。登記簿などで公開されている情報は個人情報であっても、その利用目的を自社のホームページに掲げて公開していれば、企業が利用できます。また、入居者本人の承諾がなくても、マンション管理会社が修理業者へ入居者情報を伝えることも違法ではありません。「法律違反だ」というクレームが、実は法律の誤解に基づくケースも珍しくないのです。
このような法律違反だという苦情への対応は、クレーム処理のノウハウや前例を頼りにした従来のやり方だけでは通用しません。企業は法律をしっかりと理解した上で苦情への対処法を決めなければならない時代になったのです。

 

3 自立しない個人と行政の法化


自由競争社会を実現するために法化を進める政策は、国民が自己防衛の必要性を自覚して自立することを求めていました。小泉首相が平成18年5月の参議院の委員会で消費者金融問題について「貸すほうも悪いが、借りるほうも悪い」と答弁して借金をする人の自己責任を強調したように、国民が自己責任を認識することを前提に法化を推し進めようという政策だったのです。

 

しかし、お上頼りの権威主義が浸透した日本社会では、自己責任という考え方はなかなか根付きません。自由競争を進めた結果、国民の安全や社会の安定性を脅かす事態が生じ国民に大きな不安を与えました。そこで、これは自由競争の「弊害」だという意見が噴出し、さらに「自由競争の弊害は自己責任では片付かない問題だ」という声が大きくなって、事前規制強化へ政策が転換されたのです。日本人はずっと身近な中間集団に守られて生活してきました。自立した個人として自己防衛する訓練も教育も受けていません。規制緩和による自由競争という荒波に、自立しない国民を泳ぐ訓練もしないまま放り込もうとした結果が、事後規制の強化、更には今日の規制強化社会なのではないでしょうか。

 

とはいえ、こうして規制緩和策そのものには「待った」がかかりました。しかし、結果として法化は進行して日本社会は孤立した個人に満ち溢れる社会になりつつあります。孤立した個人は周囲を思いやる社会性を無くし、身勝手な自己主張のために暴走しかねません。近年は駅員への暴力、病院内での暴力・暴言、ゴキブリ退治に110番など個人の行き過ぎた行為が目立ちます。平成19年の、高速道路のETCを無理やり突破したケースが86万件で被害額が6億円というのも、社会性を欠いた人々が多くなった表れでしょう。家や地域・企業という寛げる緩衝地帯はなくなってしまいました。その結果、身近な共同体は個人を守ってくれるものだ、というありがたみは薄れ、地域社会への配慮は不要だと感じる人が増加しています。

 

行政の側が、暴走を止めようと説得したり、諭したりしても効き目はありません。そうなると次にやって来るのは、非常識119番に対しては告訴やむなし、とか、モンスターペアレントには手引書や専門機関設置で対応するという強硬策です。狛江市では、マナーの悪化で多摩川でのバーべキューを平成24年度から条例で禁止することにしました。このように社会性を欠いた個人行動の横行は、対応する行政側の法化を促す一方となり、ここでも法律知識の官民格差が拡大してしまいます。

 

4 法律制定過程への関与


どういう場合に法律の規制が行き過ぎたものになるのでしょうか。そもそも「規制」は、事業者の経済活動を自由に放任すれば国民生活に害悪や不都合(例えば消費者被害)が生じることが予想される場合、それを防止するために必要でしょう。しかし規制の程度は、予想される害悪や不都合の程度と頻度に応じて調整されなければ、事業者の業務を必要以上に抑圧する「行き過ぎた」規制となるでしょう。どういう害悪や不都合が予想されるかは、規制緩和をして自由な競争を促進する社会なのか、それとも事前の規制を強化した社会なのか、あるいは対象が事業者の自主規制が規定される業界なのかどうか、で当然違いがあるでしょう。

 

構造改革という法化社会の出発点で、自由競争を促進するだけでは消費者に被害が発生する、という理由で「事後」規制を導入したのはバランスが取れていました。しかし自由な競争を制限する社会に変わってしまえば、その予想される害悪や不都合が異なってくるので、規制自体の在り方を改めて見直す必要が出てくる筈です。また自主規制が進んできた業界に対しては、お上の規制は弱まって行っていい筈です。

 

経済取引や商業活動のある分野を法律や命令で規制しようとする場合、法律案や命令案ができる過程でその分野で活動している企業など事業者の意見、特に自主規制の考え方が反映されることが不可欠でしょう。その意見が訊かれずお上(政治家や役人)が想定した害悪や不都合だけを前提にした規制案が出来あがって、それが一方的に押し付けられるとしたら、行き過ぎた規制になってしまう危険性が高いと言えましょう。

 

平成18年改正に続く独禁法の平成21年改正(平成22年1月施行)をめぐる攻防でも経団連は「完敗」でした。厳罰化・規制強化を批判し、自主的なコントロールの尊重と規制緩和を求めた経団連の主張はことごとく拒否されました。批判の多かった公取委が自らの処分を審査する審判制度は、民主党政権下では改められることになったものの、官僚主導での独禁法論議では業界関係者からの自主性尊重の要望に耳を傾けるようになるのか、大いに疑問です。

 

「法治国家は徹底した民主主義がなくては構築することも維持することもできない」(ハーバーマス)のであって、法システム(社会における法律の仕組み)は市民や民間企業の側から常にチェックされなくてはなりません。市民や企業など民間で理性的な討議(コミュニケション的行為)がなされることによって、企業や市民など民間からの意見が集約され、法律の成立過程でそういう下からの意見が積極的に活用されることが必要でしょう。日本の社会では、この「徹底した民主主義」が決定的に欠けているのではないでしょうか。

 

5 敵視された企業社会と中間集団の絶滅


会社という中間集団が、法化の障害として敵視されているのではないかと思えるのが今の日本です。社会学者の高原基彰が「民主党政権によって実行されつつある多様な政策の通奏低音となっているのは、日本的な中間団体への不信であるらしい。」と指摘しているとおり(「戦後日本における『会社からの自由』の両義性」「自由への問6」岩波書店)、民主党政権下でますますその傾向が強まりましたが、自民党政権に復帰した現在もその傾向は弱まっていません。

 

 日本の社会は、社会活動や経済活動を行う主体が個人単位ではなく企業単位なので、「企業社会」と言われてきました。「企業社会」では、企業内部のルールや文化の方が、社会全体のルールである企業外部の法律よりも重視されることさえあります。日本で法化が進まないのはそうした慣習を持つ「企業社会」の存在が原因だ、と指摘されてきました。社会を動かす主体が企業に偏りがちで、個人が市民として活動する場が少ない、労働者は企業に取り込まれて権利を主張することも十分にできない、といった批判もありました。

 

すなわち、企業という中間集団が法化を実現する障害であるとみなされたのです。そのため検察や行政当局は、まず、企業という壁を壊して、企業内部まで社会のルールである法律を浸透させることを目指したのです。
その結果、中間集団であった企業は、企業内の独自なルールで従業員を縛ることは止め、社会全体のルールである法律を順守することを一律に強制するようになりました。しかし、他方では、企業独自の文化が生み出していた個々の従業員をまとめる仲間意識は薄れ、個人の拠り所となるような、中間集団としての機能を持つ企業は数を減らしていったのです。

 

しかし、会社は日本の「公器」の伝統を受け継いでいる面があるのではないでしょうか。会社は日本の「家」制度が果たしてきた公共的な伝統を引き継いでいるのです。岩井克人(東大教授)は、江戸時代の「家」制度、例えば商家や武家における「家」組織は「公器」として社会的な役割を担った公共的な存在であり、家長でも身勝手な振る舞いは許されなかった、と指摘しています。「家」は中間集団として官と民を結ぶ公共的な役割を担ってきたのです。会社制度自体は明治維新で西欧から導入されたものですが、日本人が「公器」としての会社を自然に受け容れられたのは、この家制度の伝統があったからです。

 

中間集団こそが市民の公共的役割を復活させることで生き生きした日常を回復させ、社会を統合するものだ、という「コミュニタリアニズム(共同体論)」の考え方にも注目すべきでしょう。みんなの価値観がバラバラになった現代国家で、何を基準にして社会の道徳的な統合をはかることができるのか、特に法化が進み道徳的な価値観の一致が見出せない欧米では重大な課題の一つとなっています。

 

サンデル(アメリカの政治哲学者)は、どんな個人も歴史のある共同体の中で育ち、その共同体が歴史的に培ってきた共通の価値観(「共通善」といいます)を持っているのだから、その共通善を尊重すべきだ、と主張します。地域・家庭・企業という身近な中間集団は、その「共通善」を担ってきており、「民」と「官」の中間にある「共」としてその双方をつなぐ重要な役割を果たしているのです。

 

中間集団という、会社の「公器」としての価値が見直されるべきではないでしょうか。会社が今の日本の法化に対応した新たな「公共性」を担うことができれば、「共通善」を実現する重要な役割を果たすことできるのではないかと思います。