規制の緩和・強化の往復で歪んだ社会【著者 弁護士 西尾孝幸】

論考

規制の緩和・強化の往復で歪んだ社会【著者 弁護士 西尾孝幸】

一 政策転換による「事前」規制強化の登場

1 法化の進行と政策転換

小泉内閣は平成13年に発足してから、規制緩和・自由競争促進の政策を、次々に進めました。

 

平成13年小泉内閣発足時、大規模店舗の郊外進出は平成12年にすでに全面解禁されていました。平成17年に姉葉建築士による耐震偽装が問題になりました。このきっかけとなったとされた建築確認業務の民間開放がなされたのは、小泉内閣が発足する以前の平成10年でした。小泉内閣は、その発足前から進められていた規制緩和・民間開放の範囲を、さらに積極的に拡大していったのです。

 

平成13年に、鉄道会社の路線等の裁量を拡大、会社の株式の分割規制を撤廃。平成14年は、タクシーの参入規制を撤廃、バス路線の新設廃止を自由化。平成15年は、資本金1円でも会社の設立を可能とし、公立の施設の管理経営を民間に開放。平成16年は外人弁護士の参入促進、製造業への派遣労働解禁、コンビニでの一部医薬品販売拡大。平成18年は違法駐車の取り締まりの民間委託、郵政民営化の実現。このように経済活動の自由化を促進する法律が次々と成立し施行されていきました。これらの法律の背景にとなった規制緩和・民間開放の政策は、平成9年の行政改革会議の最終報告書から小泉内閣まで一貫して進められてきた我が国の国策でした。

 

ところが、平成18年に小泉首相が退陣するころには、そうした自由競争政策への批判が高まっていました。そして、皮肉なことに、事後規制の強化による法化の進行は、このころから本格化します。「談合」は、公共工事の受注者を密室における協議で決めるため透明・公平なルールに反しており、社会が法化する過程では一番の攻撃目標となります。県知事が続々逮捕された平成18年10月にあった一連の「官製談合」事件から、談合摘発は特に活発になりました。知事ら地方の官僚が談合を主導する「官製談合」は、小泉内閣によって公共工事の予算を決定する権限が、国から県知事に移譲されたのがきっかけとなって助長されたものです。

 

こうして推し進められた規制緩和策ですが、それによる自由競争が日本社会の安定性や安全への信頼性を揺るがす事態を生じさせました。平成18年ころから「格差社会」が国会でも問題となり、特に小泉内閣下での製造業への派遣解禁(平成16年)が格差を拡大した、という指摘がなされ始めます。またそのころから、タクシーの新規参入などの運輸関係の自由化がバスの事故やタクシー運転手の過重労働を招いたのだという批判の声が高まり、さらに大規模店舗の進出解禁が地方都市を疲弊させた、株式の分割規制の撤廃が平成18年のホリエモンや村上ファンドの暴走を招いた、耐震偽装問題も規制緩和策のせいだという具合に、日本社会に生じた弊害や疲弊の元凶はアメリカ流の市場原理主義による自由競争や民間開放だとする非難の大合唱になっていきました。

 

日本人はもともと安全と安心を求める気持ちが特に強いのではないでしょうか。法化社会となってもこの気持ちは変わらず、一方、その安全・安心を国民が自分の努力と工夫で自ら確保しようという自衛の考えは、法化が進行しても国民には根付きませんでした。そのような状態で、規制緩和が「弊害」を招いたという報道が続けば、国民は耐えがたい不安を覚えます。その不安を解消することが最優先の政治課題とされ、日本の社会は新規参入を制限する「事前」規制の強化へと方向転換していったのです。

 

規制緩和は市場原理主義で格差を産む、との批判が更に強まると、福田政権へ交代した平成19年以降は、規制緩和策が見直されます。福田首相が提唱し、平成21年9月に消費者庁を発足させたことは、お上が消費者を保護する「パターナリズム(家父長的温情主義)」による規制強化策といえます。規制緩和によって実現する自由競争社会とは、国民が自ら弁護士を雇って自己防衛する社会です。司法制度改革が「国民の自己責任」を掲げ、弁護士数を増やそうとしたのは、そのためです。しかし、お役所が国民を保護するから自己防衛は不要だ、と言われてしまえば、弁護士増加策も理由がなくなってしまいます。

 

2 事前規制強化への回帰、平成18年

平成18年以降の政策は、タクシーの新規参入規制のように、それまでとは逆の事前規制の動きが、どの分野でも広がっていきした。平成18年6月の国会では、規制緩和から規制強化へという「揺り戻し法改正」が20本も成立しています。全面解禁していた大規模店舗の郊外進出に対しても平成19年に規制が復活しました。

 

五十嵐仁(法政大学教授)が「2006年転換」説で指摘しているとおり、日本の政策は平成18年に大きく転換されました。経団連は平成18年6月に「我が国のおけるコーポレートガバナンス制度のあり方」を発表し、株主主権論のような海外の価値観に依存せず、日本本来の価値観を尊重し、株主以外の従業員を含めた関係者(ステークホルダー)への配慮を重視するよう要請しました。また、丹羽伊藤忠商事会長が同年8月に「改革で日本はむしろ悪くなっている」と発言し、構造改革路線の旗色は悪くなってきました。折しも平成18年5月、小泉構造改革を民間事業者が中心となって推進力となってきた「経済諮問会議」について、竹中総務相(当時)は、「改革のエンジンからアリーナに変わった」と否定的なニュアンスのコメントを出すに至りました。

 

平成18年は、1月にホリエモンこと堀江貴文が証取法違反で、6月には村上ファンド代表の村上世彰がインサイダー取引で逮捕され、株主主権論や株主万能論に冷水が浴びせられた年です。また、この平成18年から独禁法改正でのリニエンシー制度と公取委の強制捜査が開始され、この改正をきっかけに続々と「談合叩き」が始まったことは既に述べたとおりです。

 

このように、法化を進めるための厳しい事後処分が次々となされるようになったのもこの平成18年からなのです。つまり小泉改革路線終焉の平成18年半ばころ、日本の政策は「法化社会」という看板はそのまま掲げていながら、その政策の中身の方は「自由競争社会・民間開放・規制緩和・事後規制」から「消費者保護・事前および事後規制の強化」へとなし崩し的に変貌して行ったのです。

 

 

3 消費者保護立法の性格の大転換

小泉内閣成立と前後して消費者保護立法の動きも活発になりました。消費者契約法(平成12年)、食品安全基本法(平成15年)、個人情報保護法(平成15年)、消費者基本法(平成16年、旧消費者保護基本法)、公益通報者保護法(平成16年)と消費者保護の法律が続々と成立しました。これらの法律は規制緩和策と必ずしも矛盾する訳ではありません。例えば消費者契約法は、消費者に無効や取消を主張できる新たな権利を与えたものです。武器(権利)を与え、悪質な業者と自ら戦えという訳ですから、消費者の自立を促しているとも言えます。

 

ところが、改正金融商品取引法・改正消費者生活用製品安全法(平成18年)、特定商取引法・割賦販売法改正(平成20年)などに見られるように、平成18年半ばころを境にして、それ以降に成立した法律では事業活動に対する「事前」規制の強化が大きく前面に出て来ます。登録制などの新たな「事前」の規制や規制対象の拡大がなされました。消費者保護立法は、規制緩和時代は消費者の「自衛力」を期待していましたが、平成18年ころの政策転換以降は「お上頼り」の事前規制へと変化していったのです。

 

構造改革と司法制度改革は、「大人のケンカの武器」として法律での権利を国民に与え、闘いのコロシアムとしての裁判所を用意したものの、国民がその武器を使いようも無かったので、結局「子供のケンカに大人を呼ぶ」という日本本来の法律のあり様(新田一郎「日本人の法意識」)に戻ってしまったのです。

 

ニ 事前規制と規制範囲拡大への方針転換

1 規制範囲の限定を取り除く規制強化立法

NOVA問題で「業者寄り」との批判を浴びた経産省は一転、業者に対して厳しい行政処分を連発するようになりました。さらに経産省が消費者行政での存在感を強く打ち出したのが、消費生活用製品安全法と特定商品取引法・割賦販売法の改正です。今までの規制の仕方と根本的に異なる「ネガティブ・リスト」方式で規制を拡大しました。

 

どういう製品やどういう販売業を規制するか、規制対象をリストアップして限定するのが今までの指定方式「ポジティブ・リスト」方式でした。これに対し、ネガティブ方式では原則として「すべて」の製品や販売業が規制対象にされます。つまり規制対象の範囲の制限が無くなり、一部の例外を除き(これが「ネガティブ・リスト」です)、原則としてどんな製品どんな業種かを問わず、すべて規制されるのです。消費生活用製品安全法はリンナイ・ガス湯沸かし器事故などをきっかけに改正されました(平成19年5月施行)。規制対象の製品の範囲を限定せず「すべて」の製品事故についてメーカーに報告を義務付けました。消費生活用製品安全法はさらに改正され(平成21年4月施行)、電気製品とガス用品の一部(約10品目)については、メーカーは長期使用による経年劣化による事故防止のため標準使用期間を表示するよう義務付けられました。

 

特定商品取引法と割賦販売法は平成20年に改正されました(平成21年12月施行)。改正前は消費者被害が多い商品や役務(例えばエステや外国語学校などのサービス)を種別で選んで取り上げ、それだけに限定した規制をしてきました。これもネガティブ・リスト方式へ変更され、どういう商品かどういう役務(サービス)かの種別を問わず「すべて」が規制されることになりました。

 

2 煩瑣な事前規制と「行政不況」

  ネガティブ・リスト方式とならんで登場したもう一つの規制強化策が、徹底した事前の規制です。構造改革によってそれまでの「行政指導による調整型の事前規制」が次々と廃止されたのですが、平成18年半ばころからは逆に「法律による厳格な事前規制」が登場してきたのです。特に建築基準法と貸金業法の改正及び金融商品取引法は、建物新築や新規に事業を始めようとする者へ高いハードルを設けました。また建物の建築には中間検査など新たに煩瑣な手続きが要求されるようになり、業務の円滑な進捗は著しく阻害され、景気の足かせとなりました。この3つの法律の頭文字を取って「3K不況」とも、割賦販売法を加え「4K不況」とも言われました。

 

民間の建築確認制度は「廃止しろ」という声もありましたが制度はそのまま残し、平成18年に建築基準法と建築士法を耐震偽装対策のために改正しました。まず、建築確認の手続きを厳格化し、建築士らの罰則を強化し(平成19年6月施行)、また、新たに建築士の専門資格制度や設計の一括下請け禁止(平成20年12月施行)などを定めました。この改正によってその後、煩雑な建築審査のために建築手続きが停滞し、住宅着工は平成21年9月には44%減まで落ち込み、「失政だ」と批判されました。過剰な規制によって日本経済は萎縮し企業倒産は3年で倍増、特に建築基準法改正の影響を受けた倒産は平成19年には3043件と過去最多となりました。まさに「行政不況」(中森孝和)です。平成21年10月からは瑕疵担保責任を履行するための予め保険に加入するなどが強制されるようになり、住宅販売業への事前規制はさらに強化されました。かって平成12年改正で可能となった木材や木組みの柔軟性を重視する「伝統構法」の建築は、平成18年の確認手続きを厳格化した建築基準法のこの改正以降、事実上不可能になりました。 

 

  金融商品取引法も貸金業法も新規参入のハードルを高くした規制です。起業を奨励した時代は過去のものとなってしまいました。また、探偵業法(平成18年)により届出をしなくては探偵業ができなくなったように、従来は何の規制もなく自由だった仕事が規制される時代になったのです。

 

もはや、法化時代のスタートで予定した「誰でも舞台に上がれる」社会では無くなったのです。

 

3 規制のチャンピオン金商法の登場

平成19年9月から施行された証取法の改正法である金融商品取引法(金商法)は、事前規制に違反する無登録営業で警察が業者を逮捕し、金融庁が事後規制で金融機関に業務停止の処分を出す、という事前と事後の双方の規制がそろった「超」規制強化のお手本のような法律です。

 

この法律の成立によって、原則として「すべての投資」が規制されることになり、投資業務を行う者に対してその登録を義務づけました。従来は詐欺罪などの実際の被害発生の裏付けがなければ摘発できなかった投資被害も、「無登録営業」という形式的な違反だけを理由に容易に逮捕できるようになったのです。植林への投資を捜索(平成21年6月)、未公開株販売で逮捕(平成20年12月・平成21年10月など多数)、中国ビジネスへの出資話・モンゴルへの投資話で逮捕(どちらも平成22年2月)から仮装空間のマルチ商法で逮捕(平成23年6月)、風力発電の未公開株で逮捕(平成24年5月)など、すべて「無登録」を理由に、投資を募集した人たちが続々摘発されています。 また、旧かんぽの宿の過大評価(大阪府警平成23年2月)、東証2部上場の井上工業での見せかけ増資(警視庁平成23年11月)などの例のように、金商法で導入された「偽計取引」罪を活用した警察の摘発も進み、「厳しい事後処分」の方も、衰えるどころか逆に拡大しているのです。

 

4 政策転換がもたらした二重の規制で苦しむ国民

日本人の従順な権威主義は、上からの規制強化を唯々諾々と受け容れてしまいました。「管理型法化」は、企業の経済活動や市民の社会活動の隅々まで席巻する勢いです。さらにそれに政策転換が加わり、日本を「超」規制強化へと導いてしまったのです。

 

検察と警察による、経済市場や企業活動への積極的な介入や、官庁の行政処分という事後チェックは、規制緩和策の下でこそ必要とされたのです。しかし、規制強化へ政策の方針が変更された平成19年以降も事後チェックの実施は変わらず、それどころかむしろ厳しくなってきているともいえます。法化の進行は「お上」に以前からあった事前規制に加えて事後処分という新たな権力を与え、「お上」は今まで以上の権威を持つようになったのです。このように権威主義的な日本社会では、法化によって、行政と民間の法律知識の差が官民間の力関係に不均衡を生じさせる、法の「官民格差」がさらに拡大したのです。

 

当初、事後の規制が強化されたものの、事前の規制の方は逆に緩和されていたのでバランスは取れていました。ところが自由競争への批判が高まり規制緩和策は放棄されてしまいました。それどころか今度は「消費者保護」を旗印に掲げた厳しい「事前」規制策が登場しました。政府の政策は、消費者保護へ集中化・単一化して、それまでの「事後」の規制も含め規制は強化する方向だけに向かうことになったのです。こうした政策転換によって、日本は「超」規制強化社会になってしまったのですのですが、看過できないのは「規制するを左右する」行政の権限強化です。

 

規制緩和策で自由競争によって経済発展を推進しようとする以上、政府が不公平さを救済する政策を用意することも大事ですが、競争によって生じる不公平など不都合な結果はやむを得ないことだと国民の側も受け容れる用意が整っていることも必要でしょう。小泉内閣の構造改革路線は国民の自己責任を強調しましたが、実際は掛け声だけで国民の自立は進まないまま、自由競争を進めるのに適した法化社会を実現しようとしました。法の権威を高めるための手法が厳しい事後処分だったのですが、それだけで法化に適応した国民を誕生させようとするのはどだい無理な話です。こういう「こわもて」の法化政策は、日本人の法に対する過剰な「おそれ」をむしろ助長しただけの結果となってしまったのではないでしょうか。

 

三 規制が歪むメカニズム

1 規制緩和・規制強化の往復で強化される「二次ルール」を支配する行政権限

構造改革からの流れを見れば、「規制緩和が、実は規制強化だ」ということがはっきりしたのではないでしょうか。規制緩和は緩和による不備を補うのだ、として別の面の規制を強化します。経済活性化のための「カジノ解禁」が取りざたされますが、反社会的勢力の関与や浪費のおそれという弊害を防ぐために、またあらたな規制がなされるでしょう。

 

そして何よりも、規制する・しない、ということの往復を繰り返すうちに、「規制を左右する権力」がどんどん強化されてきました。

 

イギリスの法哲学者H.L.A.ハートは「法の概念」で、法は「義務の内容に関するルール」と、その義務を創生する「権能に関するルール」の結合である、と説明しています。「規制」の「基準」を定める権限とは、その「権能に関するルール」を誰が支配しているのか、という問題に直結します。

 

また、M.フーコーは、へーゲルが述べた「主人の権力が行使それ自体で解消される」というメカニズムを否定し、「権力はそれ自体の行使によって力を増すのだ」と指摘しています。 今の日本では、法律適用の範囲が拡大される法化が進行するとともに、それに呼応して、「規制の基準創り」の「権能に関するルール」において官僚支配が強化されました。結果、法化は「官」による権能の行使を促進し、それによって更に「官」はその力を増加させているのです。

 

これに加えて、「水に流す」という行政の姿勢が、国民を翻弄しています。

 

2 「水に流す」お上と国民

  なぜこうも容易に揺り戻すのか。それは「法に縛られない」で自由に規制を作るお上、とそれを受けいれる国民があるからです。非・理・法・権・天の秩序観では「権」は「天」に次いで高い位置にあり、「法」や「理」の権威を上回ります。

 

「空気の支配」と同様「水に流す」というのも日本人の国民性だと言われます。「この国の世論に一貫性が無い」と来日したジョン・デューイ(アメリカの哲学者)を驚かせたのも、この「水に流す」国民性でした。1919年の一回目の来日時にはデモクラシーの「デ」を口に出すのもはばかれたのに、1921年、二回目に訪れた時はわずか1年くらいしか経たないのに、誰もかれもがデモクラシーと叫んでいたのです。素早い変わり身をしてそれまでのことを一切水に流してしまい、何事も無かったかのように平気な顔をする、そういう一貫性の無さが日本人にはあります。小泉構造改革時のあの熱気とその後の冷め方の落差を見ても、「水に流す」という国民性は今でも変わらないことがよく判ります。

 

しかし法律や命令での「お上」の「一貫性の無さ」は、国民生活や企業活動を翻弄し困惑させるだけです。法律を適用するお上の側が法律に縛られないというのでは、江戸時代の「反-法化」のお上と同じです。行政が、事業者や国民生活への深刻な影響を配慮しないで法律を立案し、あるいは命令を出しているのは、たとえ規制が厳しすぎて想定外の弊害で国民が苦しんでも、後から法律を修正し、あるいは命令を変更して「水に流して」しまえばそれで済むと考えているからではないでしょうか。この「水に流す」という態度が、「法化」を「歪めた」しまったのです。

 

お上が、弊害を伴う、法律を「水に流す」という対応が見られた一例が、電気用品安全法の改正問題です。経産省はこの法律を改正し、平成18年からPSE(Product Safety ,Electrical Appliance & Materialsの略)マークの無い中古電気製品の販売を禁止しました。しかしこの改正(改悪?)は中古電気製品が広く出回っている現状を無視したものでした。業界の大反発を招き、結局平成19年7月にマーク無しの販売を認めることに方向転換されました。この間、新たにPSEマークを付けるために検査機械をわざわざ導入した業者もいて、業界は大混乱をきたしました。

 

また、国交省はクリーニング業者に平成22年1月引火性溶剤の使用禁止の徹底を指導するよう自治体に通知しましたが、それでは廃業せざるを得ない業者が続出することが判明しました。そこで一転、平成22年4月になって今度はその使用を認めるように解釈を見なおすことにしました。

 

強すぎた規制を緩和すること自体は悪いことではないでしょう。問題は業界の現状を把握もせず、規制が業界にどう影響するかを真剣に考慮しないまま厳しすぎる規制を導入したことです。先に述べた「うっかりインサイダー」の事件では、後から厳しすぎるとして廃止された基準に従って、当時その基準で違反だとされた企業が高額な課徴金を支払わされたのです。規制違反にはこのように容赦のない厳しい処分がなされるのが法化社会です。基準が後で修正されても以前の厳しい基準で処分された企業が救済される訳ではありません。

 

国交省は平成18年改正法で建築確認手続きが厳格になりすぎたとして、現在70日の審査期間を半分にする簡素化を打ち出しましたが(新聞78紙に全面広告、平成22年3月)、では今までの厳格な改正法は一体何だったのでしょうか。不祥事が起きたら業者の義務や負担を強めて防止すればいいという「官」治主義の発想しかないから、こういうことになるのではないでしょうか。この、もっと早く見直されるべきだった厳しすぎる建築基準法規制のために多くの建築業者が倒産してしまっているのです。

 

3 政令省令による行政「立法」による支配

お役所は「命令」で規制を強化したり緩和したりします。「政令」は政府が出す命令、「省令」は各省庁が発する命令です。この行政機関の「命令」は国民の代表である議会で成立した「法律」に根拠があることが必要で、その範囲内でなくてはなりません。しかし実際は官庁の独断的な「命令」によって、企業活動や国民生活に重大な影響を与えるような変更がなされることも多いのです。ケンコーコムなど2社は、厚労省がインターネット販売を「省令」で規制するのは行き過ぎで憲法違反だと主張して裁判を起こしました。それに対し東京地裁は「省令は訴訟の対象にならない」と門前払いしました(平成22年3月)が、東京高裁は24年4月「省令は法律の委任なしに国民の権利を制限しており違法」として逆転でケンコーコムらの訴えを認めました(最高裁平成 年 月も高裁を支持)。国民生活に甚大な影響を及ぼすような重要な事項は、役所の勝手な判断がされるおそれのある「省令」によってではなく、国会で議論して成立する「法律」で決めるように求めることには道理があります。

 

タクシー業界への新規参入禁止の規制強化は、国交省の判断による新規開業禁止区域の拡大で実施されてきました。厚労省が行政処分によって大手の派遣業者を業界から撤退させ、事実上の政策転換を実現したことは先に述べましたが、さらに厚労省は平成22年4月から派遣業者の資産基準を2倍に引上げ、既存の4割にあたる多数の業者の締め出しを図りました。これも省令変更で事前規制を強化した例です。重大な政策の方向転換が、国会ではなくお役所主導でなされているのです。

 

金融庁は財界の反対を押し切り、内閣府令を改正して平成22年3月期決算から上場企業の役員報酬について1億円以上のものの開示を決めました。民間軽視の強権体質がさらに強化されたのも、法化によって拡大した官民格差の結果です。また平成23年1月、金融庁は中小企業に生じた為替商品での多額の損失を埋め合わせるため、メガバンクに特例融資をするよう行政指導したことで「金融規律を歪めている」と批判されましたが、これも中小企業金融円滑化法以来のお上の「反-法化」体質の表れと言えるでしょう。

 

法律ですべてを規定しきれない以上、細かいところを決めたり、あるいは社会の変化に臨機応変に対応するためには政令や省令が必要なことは確かです。法律を実施するための具体策や処分の基準が、官僚の考えによって命令などでしばしば変更される、そのこと自体は必要なことでしょうが、問題はその考えの基本にある「民間無視」の体質であるといえます。

 

四 消費者庁の登場

1 消費者庁の登場とその意味

平成21年9月1日ついに「消費者庁」が誕生しました。福田総理による突然の提唱で始まった消費者庁構想は、権限移管や他省庁への勧告権限などへの官僚の反発を乗り超えて実現し、消費者保護をメインテーマとする「行政のパラダイム転換」(「消費者行政推進計画」平成20年6月)がなされました。

 

パロマ湯沸かし器事件やシンドラーエレベータ事故、こんにゃくゼリー事件などで明らかになった縦割り行政下での事故時のバラバラな対応への反省から、全国の事故情報を集約し、そして「すき間」のない行政対応をするよう期待されて誕生したのが消費者庁です。こうして消費者庁とそれに関連する消費者委員会の組織を定めた法律と、従来の役所の管轄を消費者庁に移す法律、それに「消費者安全法」の、いわゆる「消費者庁3法」が成立し、消費者庁がスタートしました。

 

消費者庁の誕生は、司法制度改革路線のとん挫を象徴しています。小泉、安倍政権時代に進めた「自己責任型」の構造改革路線は、福田政権になって「保護型」へ転向し、消費者庁は「トラブルがあれば弁護士を雇って自ら対処する社会」から「トラブルがあればまず役所に相談を」という社会へ向かうことを意味しました(読売新聞平成20年3月)。「自立型法化」への動きはストップされ、司法制度改革が目指した法曹人口拡大にもブレーキがかかったのです。 消費者庁は、消費者基本法(平成16年に消費者保護基本法を改正)に基づくというのが公式な説明ですが、必ずしもそう言えない面があります。この消費者基本法は「消費者の自立」も強調したものです。改正前の消費者保護基本法は「消費者保護」だけを主眼にしていましたから、消費者基本法の方が規制緩和時代の「自立」を求める考えに相応しいものでした。しかし消費者基本法のこの「自立」という視点は、消費者庁構想そのものによって後退させられたのです。

 

2 消費者庁の権限と仕組み

  消費者庁の誕生で消費者関連の29もの法律が、消費者庁へ移管されました。それまで所管していた農水省の食品表示も公取委の商品表示も「表示関係」はすべて消費者庁が一元的に扱い、表示規制に違反した業者への処分も消費者庁が発令します。また、特定商品取引法などの「取引関係」は違反業者への命令権限は消費者庁が持ちますが、経産省が連携協力し地方の経済局が手足となります。その他の、貸金業法や旅行業法など「業法規制」は金融庁や国交省が協力し、消費生活用製品安全法など「安全関係」は経産省その他の官庁が技術的な安全基準を担当して共同で管轄します。

 

このように消費者庁と他の官庁とは分野ごとに複雑な協力関係を持つことになりますが、行政のすき間が生じないようにするため「消費者安全法」という新しい法律がすべての分野をカバーしています。この法律で、事業者が消費者被害を発生させるようなおそれがある場合、所管する官庁がなくても消費者庁がその事業者に対して勧告や命令を発令できるようになりました。

 

機能が弱いと考えた消費者庁は、平成24年に業務停止命令も可能な法改正をし、併せて食品・家電・エステなどの事故について強制調査権を有する消費者事故調査委員会を発足させました。平成25年には認定を受けた適格消費者団体による損賠賠償制度(アメリカ並みのクラスアクション)も出来て、消費者庁の権限拡大と業者に対する規制強化には、今後もブレーキがかかりそうもありません。

 

消費者庁は発足直後、花王の「エコナクッキングオイル」で安全性を問題視する声明を出し、花王は平成21年10月、自主的に特保(特定保健用食品)の認定を返上して販売を自粛せざるを得なくなりました。「疑い」だけで企業名を公表し、自主的な撤退を迫る、というはあまりにも強引です。法的手続きによらず企業を追い込む「権威主義」的なこういう手法は、お上の古い「反-法化」体質の現れだと言わなければならないと思います。

 

3 消費者の保護と消費者の権利

消費者とはどの範囲の人を指すのかについては「我々すべてが消費者である」(1962米国ケネディ大統領「消費者の権利に関する特別教書」)、「すべての市民、労働者、農民商工業者並びにその家族である」(1966年米国ジョンソン大統領「消費者の利益に関する教書」)という定義がよく引用されます。つまり誰もが消費者であり、消費者としての権利はすべての人が擁護されるべきとされているのです。そしてこの定義こそが、消費者保護という価値観がアメリカから発したものだということを物語っているのではないでしょうか。

 

サンデル教授によると、消費という価値観は次の歴史的過程を経てアメリカで主流となりました。かつてのアメリカでは、独立した自営の生産業や小売業を営むことが理想の姿でした。そこでの労働は、自己統治と人格涵養というアメリカ人の価値観を実現するもので、また、徒弟として親方に従属して働くことも独立するための労働でしたから、労働はアメリカ人が一番大事にしている「自由」と両立するものだったのです。しかし資本主義の発達により工業も商業も巨大化し、多くの国民が自立をあきらめ、賃労働という境遇を甘受せざるを得ない状況になると、もはや労働はアメリカ人の価値観を担うものではなくなりました。そして、そういう状況下で登場したのが「消費が経済活動の唯一の目的だ」という考えです(サンデル「民主制の不満 下」)。これは、従属労働を嫌うアメリカ人ならではの価値観の選択です。しかし日本では、労働はそもそも「集団のために働く」という意味で「従属」労働でした。しかしその日本でも、日米構造協議から続く一連の規制緩和など、アメリカからの要請を受け入れ続けた結果、消費者保護の機運が高まり、労働それ自体の価値の下落もアメリカに近づいたものだと言えるでしょう。

 

法律によって消費者を保護する必要があること自体には今日では疑いの余地は少ないでしょう。業者と消費者では、その情報量と交渉力に著しい格差があります。消費者が商品などの購入の交渉で不利であることは明らかです。もはや個々人の商道徳による消費者の十分な権利保護が期待できない以上、法律でその格差を是正する方策を定めることが必要になります。前に述べた通り平成12年の消費者契約法を皮切りに、平成13年以降続々と消費者保護の法律が成立しました。

 

問題は消費者保護についての基本的な考え方の変化です。構造改革によって実現した自由競争社会と司法制度改革との関連を失い、「自立」から「パターナリズム」に変質しました。アメリカの消費者は弁護士を使って企業を訴えますが、日本では、消費者はお役所に駆けつけます。消費者保護のための法化は、日本とアメリカでは180度違う方向へ向かったのです。

 

4 弱者保護のパラドックス

結局、日本での消費者保護は自立を促すのではなく、お役所の権限を強化することで実現しようという政策に偏ってしまいました。高齢者保護や児童福祉と同じ、パターナリズムの発想です。パターナリズムでは保護される側の「自立」は期待されていません。保護する側(政府・お上)が保護される側を「弱者」という立場に固定することで、一方的な依存関係が続くのみならず、弱者保護が進めば進むほど依存の度合いは更に高まります。高齢者保護や児童福祉はそれでいいでしょうが、消費者保護の場合にまでパターナリズムによる依存関係が強まることが果たしていいことなのでしょうか。

 

また、弱者保護立法は、保護される側を有利にするとは限りません。たとえば貸金業法で低所得者への貸出を制限すれば、彼らは借金ができなくなります。その他にも借家の借り手保護を強めれば借り手が困るなどの例にみられる通り、法律によって弱者の権利を強めてもその人々を必ずしも幸せにする訳ではないというパラドックスが生まれます(福田秀夫「ケースからはじめよう 法と経済学」日本評論社)。また八田達夫(政策研究大学院大学大学長)も、最低賃金を引き上げればそれ以下の賃金で働いていた人が職を失う可能性が出てくる、雇用規制を強めると非正規労働者が困ることになるなど弱者保護政策には逆効果の面があることや、参入規制を緩和する多くの効率化政策はむしろ格差を是正する効果があることを指摘しています(「ミクロ経済学Ⅱ」東洋経済新報社)。こういう冷静な分析もなく、目先の人気取りのためにパターナリズム政策を取っているのでないかと疑われるのが今の政治の現状ではないでしょうか。

 

消費者重視政策については、それが行政の権限が拡大をするのでないか、費用対効果を無視した制度が横行するのではないかという不安が指摘されています。しかし、それより怖いのは、消費者保護という弱者保護政策がもたらす国民による自立の放棄ではないでしょうか。

 

5 価値観が一元化する危険性

今の日本は、安全・安心を旗印にした消費者保護という価値の一元化が進んでいます。しかしそのような一元化という価値観の固定は、社会の発展にとって有益なのでしょうか。

 

明治維新でなぜ日本が経済・軍事上の安定した長期発展を達成できたのか。それは国内で、富国・強兵・憲法・議会という4つの目標を掲げた4つの指導者グループが競い合い、しかもそれぞれが目標を共有し合いながら、優先順位を固定せずに取り組んだその「柔構造」にあったからだという分析が報告されています(坂野潤治+大野健一「明治維新1858-1881」講談社現代新書)。

 

もともと八百萬の神々をまつる多神教の日本は、原理原則に縛られず現実に柔軟に対応するのが持ち味でした。

 

しかし一方で軍国主義の時代に見られたように、価値観が一元化する危険を抱えているのも日本社会の特徴です。

 

1916年に日本を訪れたダゴール(インドの詩人・思想家、ノーベル文学賞受賞者)は、日本の国家主義が際限なく膨張する様子を目の当たりにし、日本が西洋の原動力を自分の原動力とする危険性を指摘しました。「自由の刈り込みに全国民が服従し」「あまねくゆきわたる精神的奴隷制」をうけいれている、と批判しています。消費賛美の行く末に日本を待っているのは「貧困大国アメリカ」(堤未果)です。消費者保護で法化を進める今の日本社会は、かってのアメリカにあった「消費は美徳なり」という精神に支配され、勤労それ自体や宥和を尊重してきた日本本来の良さである「柔軟さ」を失い、硬直化しているのではないでしょうか。

 

6 煽られる消費者保護の先陣

  消費者保護に価値が一元化してしまうと、「業者寄り、即ち悪」という単純な図式が定着します。

 

中央官庁はマスコミを利用して地方行政をやり玉に挙げています。食品偽装問題で地元業者名を公表しない地方の自治体は、「偽装公表渋る自治体」(朝日新聞平成20年8月)や「千葉県偽装業者公表せず」(朝日新聞平成21年4月)などとマスコミに批判されました。これらの報道からは、業者名を発表した農水省の方が業者名を発表しなかった熊本県や千葉県などの地方の自治体より「消費者寄りだ」ということを強調する姿勢がうかがえます。さらに農水省は、23年からは業者が自ら公表することを義務付け、自治体の地元企業の擁護を許さぬ構えをとりました。しかし、地元産業の育成を担う地方の自治体が業者名公表を躊躇する理由も理解できなくはありません。マスコミで地元の企業名が公表され攻撃されれば、弱小業者は致命的なダメージを受けかねないのです。であればむしろ、企業名を公表しない理由があればそれを地方自治体は堂々と説明してはどうでしょうか。

 

また、マスコミも、例えば「特商法での行政処分の発令数が少ない県はどこだ」などと「犯人探し」をします。一元化した価値観の社会では、マスコミが「業者寄りかどうか」という単純な指標に基づいて業者への対応が遅い官庁や地方自治体を攻撃しやすくしなっていますし、また「どちらの役所がより消費者寄りか」という基準を当てはめて評価し、官庁間における「消費者保護」の先陣争いを煽ろうとしているマスコミの意図も見え隠れしています。

 

2015/06/19(金) カテゴリー:論考

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