「反-法化」社会ニッポン やって来た「法化」【著者 弁護士 西尾孝幸】
一「法化」で苦しむ欧米諸国と「法化」を拒否してきた「反-法化」の日本
1.過剰な「法化」に苦しむ現代の欧米社会
欧米では1970年代後半から、「多すぎる法律」「多すぎる法律家」「多すぎる訴訟」といった、過剰な「法化」が議論の対象とされるようになりました。
「法化」とは、社会に生じる様々な問題について、それを法律によって規制したり、処理したりする必要があると考えられる事柄が増え、その結果法律の適用や裁判制度を利用する範囲が著しく拡大する現象のことです。訴訟社会アメリカは、法化の行き過ぎた社会だと言われます。
世界的に見れば、現代国家で法律が増えるのはやむを得ないことです。近代国家には、自由な経済取引の市場になるべく介入しないことが求められました。しかし現代国家には、市場の実質的な自由を守るために経済関係の法律によって巨大企業の支配を排除することと、社会関係の法律によって自由主義の市場が生み出した社会的弱者を保護することの双方が求められます。そのため、法律が爆発的に増大してしまい、法化が進行するのです。
最近ではさらに、人類は自ら創り出したリスクに対応するための法律を用意しなくてはなりません。ウルリッヒ・ベック(ドイツの社会学者)は「危険社会」の中で、環境汚染、金融崩壊、国際テロの脅威をその危険として挙げていますが、それ以外でも、ネットによる攻撃、薬物汚染など到底個人では対応できない危険に対しては、国が法律によって対策を講じなくてはいけません。21世紀の国家は「安全保障」のため法整備も求められているのです。しかし、法化がいいこととばかりはいえません。
ハーバーマス(ドイツの哲学者・法社会学者)は、法化の進行を「法による生活世界の植民地化」と表現しています。隣人関係や家庭・教育現場のように、本来法律の規制になじまない分野まで法律が入ってきて、その結果として活き活きとした文化やコミュニケイションが破壊されることを危惧し、法化に反対しているのです。リバタリアニズム(自由尊重主義・自由至上主義)やリベラリズム(自由主義)の立場から、個人の行動に国家が介入しすぎてはいけない、という批判もあがっています。
日本ではむしろ「少なすぎる法律家」「少なすぎる訴訟」という「法化の遅れ」が指摘されてきました。他方法律の数では日本も欧米に引けを取りません。それどころか、煩瑣な行政上の規則は、欧米や開発途上国はもちろん他の先進諸国よりもっと多く、そのため、世界189の地域のなかで「開業」・「建設許可取得」の容易さは83番目、「納税手続き」の容易さは実に112番目と、きわめて低いレベルにあって(世界銀行「ビジネス環境」レポート2015)、日本では起業や税金納付手続きがいかに煩瑣なルールに縛られているかが良く判ると思います。
平成23年の3.11東日本大震災の時に、非常時の日常生活に支障が生じないにと食品表示、免許更新などの本人確認などの細かい規制を一時的に解除しましたが(多くは平成24年3月31日で終了)、その数たるや実に214項目もありました。
私たち日本人は、社会活動の端々まで、こまかい規則に縛られて生活しています。これらの規則の運用は行政の判断でなされます。こういう状態は、「法律」があっても法律によってではなく、官僚の「規則や解釈」で運営されている社会であって、とうてい「法治国家」とは言えません。日本の社会はもともと「法化」を意図的に無視した「反-法化」社会でしたが、それでも行政による規則運用は柔軟になされ、人々はそれほど窮屈な感じを抱かず生活できていました。
小泉構造改革は「規制緩和」を旗印に、この「反-法化」状態を解消して日本の「法化」社会化を進めようとして、司法制度改革による法律家の増加と訴訟の効率化を目指したのですが、実際には逆に「規制強化」が進んでしまいました。
なぜこんな事態になったのでしょうか。
2 辺境の国日本の建前としての外国法制受容
「世界標準を求める辺境の国である日本」(内田樹)は、建前上は外国の法制度を受けいれながら、実際にはそれをその通りには実施しませんでした。律令制と明治維新時の西欧法制のそれぞれが導入されたときのことを考えれば、それは明らかでしょう。
中国は科挙によって、全国から秀才を集めて国家を運営しました。しかし、その中国の律令制度は、日本にとっては「鶏を割くに牛刀をもって」の観があり、また、島国で外圧がなく、世襲で国家を十分に運営できたので、そのまま適用することはしませんでした。日本では例外である「令外の官」を作り、現実対応を優先させてきました。
明治政府も建前としては、市民の権利を尊重する西欧の法律制度を導入しました。しかし実際には「お上に従う」ことを当然とする権威主義による現実対応を優先させることで、社会はうまく機能してきました。また、この権威主義が背景にあったために、明治政府は国民の大きな抵抗を受けることなく、法律制度を一挙に変更することができたのです。
3 みずから「反-法化」を進める「お上」
この柔軟性と権威主義によって、法律が本来もつべき安定性・恒常性といった面も、現実的政策の必要性を優先するという大義名分で往々にして無視されます。
平成21年11月に成立した中小企業金融円滑化法の実施は、平成25年3月で終結しましたが、実際上は金融庁が事実上の返済猶予を金融機関の求め、まだ継続しています。そもそも、法律制定を強行した亀井金融大臣(平成21年当時)の、中小企業向けの融資や個人の住宅ローンについて、その返済猶予を促す「平成の徳政令」発言を聞くと、「お上」の「法無視」体質は江戸時代から変わっていない、と感じます。つまり、法を定めるお上自身は、明確さ・安定性・予見可能性など、法律が本質的に持つ性格を無視できる、という発想です。ハート(イギリスの法哲学者)によると、法には「恒常性」が求められますが、一貫性がない、というのは日本の「お上」(政府)の特徴とも言えます。足利時代の「徳政令」や、江戸時代に、幕府も諸藩も発した「毀損令」、200年間に11回も発せられた「借金銀会相対済令」などの借金棒引き方策は、法律はお上を縛らないという「反-法化」の文化を日本に定着させました。
「反-法化」の極め付きは、将軍吉宗の定めた公事方御定書の「よらしむべし、知らしむべからず」という法の非公開主義です。人々はどういう根拠と基準で裁かれるかわかる必要がない、とされたのです。「法律が知られていなければ、どうしてこれを守ることができよう?」とモンテスキューも『ペルシャ人への手紙』の中で述べているように、まさに「お上」自らが、人々を法から遠ざける「反-法化」の社会を作ったのです。
4 硬直した法律制度でも不都合が生じない「反-法化」社会
日本での形式上の「法律」の登場は、内閣制度創設の翌年、明治19年で、それ以前は太政官の布告によって行政が運営されてきました。明治23年から31年には、憲法・刑法・民法・商法・民事訴訟法という基本法をはじめ多くの法律できましたが、その多くは戦前・戦後を通じて運用され、さらに一部は今日に至るまで、その形を変えることなく存続しています。これは日本が、法律制度に依存しない社会であったために、法律は硬直したまま放置しても不都合がなかったことの表れであるといえるでしょう。保険法の改正は100年ぶり、民法の契約編の改正はやっと120年ぶりです。川島武宣先生は、明治時代の法律が長年改正されず存続してきたのは、当時の役人がいかに優秀だったかという証拠だといいますが(「日本人の法意識」岩波新書)、そもそも日本の社会が法律に頼らず運営されたため、法律改正も不要だったのです。
平成26年8月現在で、日本には憲法をいれて約1900の法律と約5600の政令・省令など合計8027もの法令があります。中には、構想が消滅したにも関らず年2億円もムダ使いを続けた「国会等移転法」(1992年、平成23年7月にようやく担当部署が廃止)やバブルで破たんした「リゾート法」(1987年)など、その役目が既に無くなっているのに、議員立法である、あるいは所轄官庁が複数である、などの理由で廃案にできない法律が、多く残されています。こうした「こんな法律、ホントにいる?」と言う法律が未だに数多く残されているほど、日本の法律制度は硬直しているのです。でもそれでも不都合がないのは、法律は行政のためのもので、行政の都合でいかようにでも柔軟に解釈できるということがあるからです。それが政令、省令、通達、行政指導という行政手法でなされてきたのです。
5 お役所のための法律
六法全書に収録されている日本の法令はほとんどが、行政に関する法律です。例えば老人福祉法、介護保険法、都市計画法、大気汚染防止法などはすべて、行政機関がどう動くべきであるのか、に関する条項を含んでいます。行政法規では、その権力が不当に市民の自由を奪わないよう、法律だけが行為の根拠とされるべきだという原理の確立が要請されています。
アメリカでは、この「法律による行政の原則」の通り、法律にとって、行政などの公権力を制限する機能が重要だとされますが、他方、日本の法律はお役所のためにあり、役所が動くために法律がある、と批判も多く聞かれます(コリンP.A.ジョーンズ「アメリカ人弁護士が見た裁判員制度」平凡社新書など)
これも、日本の法律が成立した過程を考えると当然かも知れません。「官僚内閣制・省庁代表制」といわれる日本では、各省庁が業界団体などから民意を集約し、さらに官僚が各官庁の間の調整をした上で、法案が生まれます。そしてその法案が、自民党の事前審査を経て完成され、議会での審議を経て、そのまま法律になってきました。
民主党政権はこの「官僚独裁」を変えると宣言し、その動向が注目されましたが、結局は再度官僚の軍門に降り、野田政権は「財務省支配」と酷評されるほど官僚依存の体制になってしまいました。結局、安倍自民党政権ではもとの「官僚内閣制・省庁代表制」に戻り、それはかえって揺るぎないものになりました。
6 日本人の「反-法化」意識と、上からの法化が持つ威力
煩瑣な法律による統治を嫌う日本人の性格は、その「法三章好き」にあらわれています。「法三章」とは司馬遷の「史記」にある故事で、漢の高祖(劉邦)が「殺人は死刑、傷害と窃盗を処罰」と、極く基本的な法3つだけを残し、膨大な法令で人民をがんじがらめにした秦の法律を廃止したことを指します。松下幸之助は、「法治国家は先進国ではなく中進国だ。真の先進国は「法三章」で治まって行く、国民の良識が高い国だ」と述べています。また、昭和初期に海軍の良識派を代表し謹厳な人柄で知られた連合艦隊司令長官・谷口尚真は、兵学校校長時代、生徒によく「法三章」を説いていました。
このように、法律に頼らず、道徳や倫理観によって強制的でない方法で社会秩序や国作りを行うことを理想とする考え方は、従来から日本には根強くありました。法律を尊重しない点ではリバタリアニズムと共通であっても、その理由は個人の自由を尊重するためではありません。それはむしろ、集団主義の立場によるものです。すなわち日本人は、「お上の権威」と「和の尊重」を法律より上位とする秩序観を持っているのです。それ故「上から」の法化は、日本人にとっては非常に威力が大きいのです。
二 「反-法化」の国の住民
1 多くの国民が法化に適応している銃社会アメリカと喧嘩両成敗の日本
銃社会であることにも象徴されるようにアメリカでは自力救済・自治が信条とされ、そうした信条の実現が司法の場に求められてきたといえます。他方日本では「喧嘩両成敗」や「大岡裁き」に見られるように「和」が重んじられ、そうした価値を実現するアクターとして「お上」すなわち「行政」が信頼されてきました。それ故国民の法や裁判に対する意識は低く、結果としてアメリカ型の「法化」は法知識の有無に伴う官・民の格差を生み出しました。そうした格差は日本社会の「官」治主義を強化し、刑事的・抑圧的な形での社会規制をもたらしています。
権力への不信感があり、政府の規制に対抗して国民の側が法を駆使して自衛するのがアメリカ社会の法化です。アメリカの憲法修正2条は、自治と自衛のため国民が銃を所持する権利があると宣言していますが、訴訟を利用する国民の側の法化も、銃所持と同様に自治と自衛の思想の延長上にあるものとも言えます。
法化について日本との決定的な違いは、アメリカでは広い範囲の国民が法化に対応しているということです。フランス革命当時の思想家トクヴィルは1835年刊行の「アメリカのデモクラシー」の中で、「法律がアメリカほど絶対的な言葉を語る国はどこにもないが、また、法を適用する権能がこれほど多くの人に分割されている国もそれ以上にない」と指摘しています。弁護士100万人、日本の20倍以上2千万件とも言われる膨大な訴訟件数、6万人以上のロビイスト、これらの数字はいかに広い範囲のアメリカ国民が法の適用に関与しているかを表わしています。
これに対し日本は、弁護士の人数も訴訟件数も少なく、法律の成立と執行は官僚主導です。法を適用する権能は国民のごく一部である官僚に集中し、ほとんどの国民は法律の適用に関与していないのが日本なのです。
2 自衛のアメリカ、お上頼りの日本
黒沢明の映画は欧米人に人気がありますが、これは「自衛の思想」を表わしているからではないでしょうか。「7人の侍」「用心棒」「椿三十郎」は、どれも農民や下級武士自らが、腕の立つ武士を自分の武力として雇って防衛するという物語です。「荒野の7人」や「荒野の用心棒」のリメイク版西部劇の方が本家版よりしっくりするのも、黒沢映画の「お上に頼らず自衛する」というシチュエーションが日本の社会より銃で自分を守るアメリカの西部劇の世界観に合っているからでしょう。
これに対して勧善懲悪のTVドラマ時代劇には日本人の「お上頼り」「権威主義」がよく現れています。水戸黄門、大岡越前、遠山のお金さん、暴れん坊将軍などのどれを取っても、「権力」と「正義」と「紛争解決」が三位一体となっています。権力には正義に従って紛争を解決する力があるという「お上」への信頼感がこれらの時代劇の人気を支えています。
もともと日本人には、楠正成が旗印にしたとされる「非・理・法・権・天」(実際は江戸時代の伊勢貞丈の「貞丈家訓」が出典)に示されるような秩序観がありました。つまり「天」が最上位で次に「権力」その下に「法律」・「理屈」という順序で階層化された秩序観です。また、天を頂上として仰ぎ見るこの自然秩序観は、政治的な支配者との一体感をも意味したのです。丸山真男は、天の恵みを感じる温暖な気候での生活が、日本人に支配層への一体感を抱かせたのではないか、それが中東のように太陽の照りつける厳しい気候の中で、国民が支配者へ対立的で峻厳なイメージしか抱けなかった国との大きな違いではないか、と指摘しています。
北条泰時はこういう自然秩序観を基本にして、道徳も含めた社会規範を「貞永式目」51箇条にまとめました(1232年)。芭蕉が「名月の出づるや五十一箇条」と名月のように優れた規範だと讃えたように、制定された鎌倉時代よりずっと後である江戸時代まで続いて、長く日本の道徳などの社会的な規範を支える底流となってきました。
このような自然秩序観と一体となった社会規範が、お上を信頼する「権威主義」とあいまって尊重されることで、日本は安定した社会を維持してきたのではないでしょうか。
3 「権利のための闘争」をしてこなかった日本
市民が権力に抵抗して勝ち取った権利の最たるものは、課税の制限です。
「この世で確実なものは、死と税金だけである」(ベンジャミン・フランクリン)と言われるとおり、どんな国家体制になろうと、税金だけは無くなりません。欧米では権力からの一方的な税金による奪取に諸侯や市民層が対抗し、イェーリンクの「権利のための闘争」(1894年)のタイトル通り、血と汗で君主からの徴税権への制限を勝ち取ってきました。英国王ジョンのバロン(諸侯)への課税を制限したのがマグナカルタ(1215年)で勝ち得た「合意なければ課税なし」の原則です。ボストン茶会事件(1773年)で英国からの茶税に反発したことから勃発したアメリカ独立戦争(1776年)でアメリカは「代表なければ課税なし」の原則を勝ち取りました。また、ルイ16世が課税を強化しようとして招集した三部会(身分制議国会)への反発がフランス革命(1789年)の発端となりました。欧米では、国民の代表による法律の根拠なしには国民への課税は許されないという「租税法律主義」の原則が国民の血を流して勝ちとられたのです。
日本人には、法律は「国から押し付けられたというものだ」という意識(読売新聞平成21年1月のアンケートで国民の54%)が強いのではないでしょうか。租税について定めた法律は「押し付け」と感じさせる法律の最たるものでしょう。日本では昔から「泣く子と地頭には勝てない」と言われてきたとおり、税金徴収などのお上からの権力発動には逆らえないというあきらめの観念が定着してきました。
こういう伝統からでしょうか、日本の課税基準は個別にしか決まらず、かつ基準も公開もされません。これに対しては、海外の投資家から「課税の基準が明確でない」という批判がされています。
4 西欧の「学識法曹」の長い歴史と日本の「家学」、官僚主義の裁判制度の発足
結局、司法制度改革が目指した弁護士人口の増加策にはストップがかかりました。弁護士という職業は西欧では古くギリシャ・ローマ時代からありました。また、学問として法律を研究する「学識法曹」が西欧社会には中世からあって、民間で研究成果を交換しあう「開かれた知の体系」が法律の分野でも存在しました。
12世紀に成立した最古の大学であるイタリアのボローニャ大学はローマ法を教える法学部を中心に発達し、そこからヨーロッパ中に大学で法律を学ぶ学識法曹が広がっていきました。また、イギリスでは実務法曹家のギルド(同業者組合)が設立した法曹学院という自前の機関で後継者を育てる実務教育が行われてきました。
しかし、わが国の法律知識の担い手は、「お上」に忠実な役人として国家の官僚機構に組み込まれていました。律令時代に法律専門家である明法家が誕生しましたが、それ以後は「家学」として、実践上のノウハウが閉鎖的に受け継がれてきたに過ぎません。明治以前の日本には大学の法学部のような開かれた高等教育機関はなく、開かれた「法の知」は存在しませんでした。
明治19年設立の帝国大学(現東京大学)は、文官試験規則や官吏服務規律の制定とワンセットとなったもので、立憲国家の行政システムをささえる近代的官僚のリクルートシステムとして構想されたものです。学識法曹の育成を目指したものとは言えません。明治維新で近代化した日本でも「法の知」が民間で育つことはなく、また西洋から導入した司法制度自体も最初から官僚的なものに作り替えられていたのでした。
後に述べるように近代以前でも日本に裁判はありましたが、それは当事者間の権利関係に白黒つけるというものではなく、「訴願主義」と評されるように、お上に「紛争を解決してくれ」と求めるものであり、しかも、裁判で争うこと自体が憚れるものでした。この基本的傾向は明治維新でも払拭されませんでした。
日本の近代的な裁判制度の出発点は、明治維新でのフランス・ドイツの司法制度の導入でした。しかし、両国の裁判制度の肝心な部分は採用されませんでした。
フランスの司法制度では「素人裁判官」の制度が商事裁判所・労働裁判所などの特別裁判所と治安裁判所にありました。ドイツの司法制度では民事訴訟で弁護士をつけることが強制され、法律家が国民の利益を守る仕組みがありました。このフランスの「素人裁判官」とドイツの「弁護士強制」の制度が日本ではどちらも採用されず、日本の裁判制度はスタート時から民間の関与を排除し、官僚主義的だったのです。
この官僚主義的な裁判所が、司法制度改革を契機に一時期、特に平成17年ころから「積極主義」への新たな変身を遂げました。最高裁の、消費者金融へ過払い金の返還を命じた際に見られた一連の対応から、最高裁が新しいルールを立てて、社会を大きく動かす力になるのかと期待されましたが、残念ながら結局もとに戻ってしましました。
5 民間の「法の知」の不在
日本の法化は、司法と行政という「お上」がその権威をどんどん強める方向で進んでいます。国民も企業も消費者保護という大義名分につられ、規制強化へ同調させられています。一体何のために法化がスタートしたのか、振り返ってみる必要があるのではないでしょうか。行き過ぎた規制緩和への矯正策としては積極的な意味があった法化ですが、そもそも法化それ自体は積極的に「いいことだ」と手放しで称賛すべきことではなく、「やむを得ない」ことだと認識すべきなのです。日本の社会で法化が進むことによる危険性にも目を向けねばなりません。
法化の進行については、弁護士もカヤの外に置かれています。日本では明治5年の代言人制度から弁護士制度がスタートします。「三百代言」というのは、当初は、資格がない代言人は三百文の安い価値しかない、という意味でしたが、そのうち弁護士の蔑称として使われるようになり、弁護士は社会的には低い評価しかされてきませんでした。裁判官ですら行政に劣る地位にあった戦前の日本の司法制度では、民間の弁護士が「お上」の規制に対抗して力を発揮する余地は殆どありませんでした。
我が国では「法」を官が独占し、伝統的に民間で「法の知」は育ちませんでした。企業や市民の間で、官と対抗できるような「法の知」が育たないと、歪んだ法化は進むばかりです。今では各大学に法学部がありますが、法学部への進学するのは「法律が面白いので勉強したい」という学問的興味より、就職で有利だとか、法曹関係の仕事に就きたい、という実用的な側面を動機とする学生がほとんどでしょう(私もそうでした)。実際、法学の知識は法化社会では実用的な重要性を増していきます。しかし、実用性を追求するだけでは「官」に対抗する力になりえません。行き過ぎた法化にブレーキをかけるためには、「公共性」への広い関心と積極的な関与によって、弁護士を含めた民間で「法の知」が育つことが必要だと思います。
法曹人口増加に弁護士会が反対したことについてマスコミは「自己保身」だとして批判的でした。しかし弁護士への需要がない社会に大量の弁護士を送り出しても、混乱を招くだけです。法曹人口を増やす前に、社会も弁護士も双方が、まず民間の「法の知」はどうあるべきか、どう育てるかを議論し、知恵を出し合っていくことが必要なのではないでしょうか。
三 法化の登場
1行政改革から小泉構造改革の登場と「法化」
平成13年12月、司法制度改革推進本部(本部長小泉首相)が設置され、「この国のかたち」の再構築を目標に掲げる、国民参加と国民の自立を訴えた司法制度改革が始まりました。そしてそのころから、私達は「法化社会」という言葉を耳にするようになりました。
構造改革路線を基調とする小泉政権は、司法制度改革を開始する8ケ月前の平成13年4月に成立し、規制緩和後の公正な競争社会を実現するには、従来行われていた密室での事前協議を廃止し、公正・透明な法律を唯一のルールとすること、つまり「法化社会」の実現が必要だ、と主張しました。
行政改革会議の最終報告(平成9年12月)は、「法の支配」こそ、規制緩和を推進し、不透明な事前規制を廃して、事後監視・救済型社会への転換を図るものである、としています。つまり、司法制度改革等による法化が、規制緩和を推進するために必要である、ということを強調していました。
平成9年当時、法務大臣官房長であった但木敬一元検事総長は、内閣に「司法制度改革に取り組んでもらいたい」と要請したのがその実現にとって最初の一歩となったと振り返っています。当時は最高裁・法務省・日弁連の利害が細かく対立していたため、大きな司法改革は望むべくもなく、内閣がイニシアティブを取って初めて、司法制度改革が実現したのです。こうして政府は、規制緩和と司法制度改革を同時に、かつ強力に推進できることになり、その実現のタイミングが、小泉構造改革内閣の誕生に一致したのです。
つまり司法制度改革は、「構造改革による規制緩和は、その反面として法化の強化を要請する」という大義名分があって初めて実現したことなのです。
このことを裏付けるように、司法制度改革審議会の意見書は、司法制度改革が、構造改革・規制緩和と一体であることを宣言しています。
意見書はまず、司法制度改革が、政治改革、行政改革、地方分権推進、規制緩和等の経済構造改革といった、これまでの改革を、有機的に結びつけるものである、と説明しています。そのうえで司法制度改革が、「この国のかたち」の再構築に関わる一連の諸改革の、「最後のかなめ」であると、その重要性を強調します。
さらにこの意見書で見逃せないことは、司法制度改革が、国民が自律的かつ社会的責任を負った統治主体となり、創造性とエネルギーを取り戻すことによって「自由で公正な社会」の構築を目指すもの、としている点です。これは、規制緩和に伴う自由競争の社会を指していると考えられます。
なおここで「法化」という言葉を整理しておきましょう(以下、田中成明「現代法理学」有斐閣による)。法化には、「社会で法律が増えて法律制度が社会にひろがること」「市民が法の価値を優先するという法文化が社会の内で定着すること」「裁判制度などの司法制度の利用が広がること」の三面があるとされます。また、法化の進行には「自立型法化」「管理型法化」「自治型法化」の3タイプがあり、「自立型法化」は訴訟手続きの活性化や訴訟へのアクセス整備を進め、「管理型法化」は行政規制・保護を進め、「自治型法化」は裁判外の紛争解決手段(例えばADRなど)の活用・拡充を進める、という形で進みます。
このうち「自立型法化」と「自治型法化」は、司法制度改革で目標として掲げられたものです。「管理型法化」は司法制度改革の目標項目ではありませんが、構造改革が求めた「法化」の本家本元の主戦場です。本書で「法化」という言葉は以上を含めた広い意味で用いますが、もっぱら問題視しているのは、行政権限が強大化していく「管理型法化」です。
2厳しい事後チェック社会の実現
司法制度改革だけでは、国民性とも言える日本人の訴訟嫌い・法嫌いは変わらず、法的価値は国民に根付きません。ではどうすれば法の適用が浸透するのか。その答えが「管理型法化」の強力な推進です。そのために法規制の「事後チェック型」への転換と、それに伴う厳しい制裁がなさえることが求められたのです。松尾元検事総長(2004.6~2006.6在職)は、検察の考えを、次のように明確に説明しています。以下に発言の要点をまとめます。
日本は21世紀になり、許認可や行政指導による事前規制型社会から厳しい制裁を伴う事後規制型社会へと「国のかたち」を大きく変えた。これまでは舞台に上がる人を行政が事前にチェックしていたので、司法は袖に控えていればよかった。今後は誰でも自由に舞台に上がれる代わりに、ルール違反者に厳しい制裁を科す必要が生じた。談合は「公正・透明なルールに基づく自由な競争」という新たな時代の根幹を揺るがすもの。検察の守備範囲は拡大している。そう意識することが大切だ。
規制緩和で自由に競争させる、その代わりに、事後チェックという監視と事後処分で厳しく取り締まる、ということです。
そこには、国民の自発的な法化への動きや、主体的に事後救済を求める姿勢が不可欠でした。構造改革と法化社会、それに司法制度改革、そのいずれもが、「自由で公正な」社会のために、国民に「自律」をうながしている、「自立型法化」「自治型法化」を中心とした「自律推進」型だったことを忘れてはなりません。
しかし、現実には、事後監視と事後処分という「管理型法化」の規制強化策には自発的な要素は少なく、自律も十分には図られませんでした。強引に、いわば荒療治として「上から」なされたのが、日本の法化だったのです。つまり、日本の法化は企業や市民にとって、規制緩和を隠れ蓑とした、法適用の厳格な運用を意味していたのです。また司法制度改革が掲げる「国民参加」も、松尾元検事総長が、「『裁判に参加したい』と本来主張すべき国民が主張しないので、代わりに官が旗を振っている」、と言うとおり、上からの恩恵的な改革だったのです。
法はお上から与えられものだ、という意識、それに基づいた上からの改革、これが司法制度改革でした。国民の間に法化の意識が醸成されうるはずがありません。
3 リバタリアニズムと小泉構造改革の規制緩和
皮肉なことに「法化」を進めた小泉首相が、「反-法化」の論客リバタリアンと評されたことがありました。リバタリアニズムは、個人の自由尊重を極限まで追求します。その代表的な論者であるノージック(アメリカの哲学者)は、犯罪防止や契約の執行などにその機能を限定した「最小国家」が正当であると主張しています。規制強化は人々の自由を委縮させ社会の活力を喪失させるとし、経済取引の市場ついても、自由競争と規制緩和を求めるのがリバタリアニズムです。
小泉首相が「小さな政府」を掲げ、規制緩和を推し進めた平成17年10月当時、彼は「リバタリアニズムを信奉している」との評価もありました。しかし、小泉政権はそれと同時に法化も推進したのです。構造改革とは、土地・資本・労働力といった生産要素市場の規制緩和を政府が「強制的」に行ったものだ、と評されたように(松原一郎「日本経済論」HNK出版新書)、小泉首相のリーダーシップは、規制する側(政府や官)の権限を強化するものだったのです。
4 自由競争社会の危険な落とし穴とアメリカの影
構造改革論者は、市場原理主義に基づき、「自由な競争を促進しなれば、日本は経済的に強くなれない」、と主張します。竹中平蔵は、平成12年当時、「競争力をつけるにはアメリカのように競争をさせるしかない。日本の自動車産業が強くなったのは政府の規制に反発して競争したからだ」と述べ、平成21年年末の時点でもなお、「郵政民営化は勿論、労働自由化やタクシーの規制緩和も間違ってはいない。改革反対は古き良き時代に戻りたいという大変に情緒的なものだ」、と一貫して主張しています。しかし、「競争社会」アメリカをモデルにして日本を改造するのであれば、日本は「訴訟社会」アメリカへと向かうしかないでしょう。
規制緩和を目指す一連の「法化」政策が、竹中平蔵が言うような、日本側の危機感を一因とすることは否めませんが、他方ではアメリカの圧力に影響されたことも事実でしょう。1980年代の日米構造協議で、行政指導や系列取引について、「客観的ルールが欠如している」、「独禁法(独占禁止法)に違反する取引慣行だ」、などという厳しい非難を日本は受け、平成2年、当時の海部内閣が独禁法強化を表明しました。さらに米国からの強い要請で、平成3年ころから、検察庁は、公取委(公正取引委員会)から告発される独禁法違反の案件の捜査に力を入れるようなりました。そして、公取委も罰金引き上げの検討を始めるなど、検察・公取委の双方が、談合摘発などに対し積極的な姿勢に転じました。規制緩和策は、平成6年からの「年次改革要望書」での、アメリカからの執拗な要請に応じたものであったのです。日本で社会の法化が推進された背景に「訴訟社会アメリカ」の圧力があったことは明らかです(関岡英之「拒否できない日本 アメリカの日本改造が進んでいる」文春新書2004)。