麹町道草日和
ちょっと一息。みらい法律事務所の所属弁護士によるコラムです。

エピクテトスが弁護士ならこう言うよ

「言語学バーリ・トゥード」(東大出版会)で愉快な話題を提供してくれた川添愛さんも、コロナ禍で気持ちが揺らいでいたそうです。
そんな心を落ち着かせてくれた本が、「その悩み、エピクテトスなら、こう言うね」吉川浩満・山本貴光(筑摩書房)です。
川添さんが今年9月4日の読売新聞読書欄で紹介する悩まない方法とは、エピクテトスの、「権内」「権外」を区別しようという考えです。
エピクテトスは紀元前後ころ、古代ローマの奴隷出身のストア派の哲学者で、哲人皇帝マルクス・アウレリウスも愛読した弟子の聞き書きが、「人生談義 上・下」(岩波文庫)として残されています(その本の訳者、國方栄二さんの「哲人たちの人生談義」(岩波新書)でもエピクテトスは主要な哲人です)。

エピクテトスの教えはこうです。
まず問題を「権内」か「権外」か、見分けること。
「判断、衝動、欲望、忌避」は我々の心の働きによるので「権内」です。
「権内」にあるのは、自分で自由にできる自分の心象だけです。
大事なことは「心象の正しい使用」、つまり、その心象をコントロールすることです。
それ以外、例えば「肉体、財産、評判、官職」は我々の心の働きにはよらない。我々の力が及ばないもので、本来自分のものでないから「権外」です。
「権外」は自分でどうにもできないことです。
できないことを考えてもしょうがない。だから「権外」のことで悩むのは無駄だ、ということです。

なかなか明快です。
では悩みの最たるもの、「紛争(裁判)」に巻き込まれたらどうすればいいのか。
裁判は、今でも普通の人にとって「権外」の典型的な例ではないでしょうか。
エピクテトスは、裁判自体にかなり冷淡で、否定的です。
裁判のためにローマに行こうとする弁論家から「裁判が成功するか」と尋ねられたエピクテトスは、「健全な考えを持っていたら争わない。
自分の考えを吟味したのか。平静さを求め、欲望を放棄せよ」と、とてもそっけない。
裁判に勝つためにあくせくするな、健全な心持っていれば、どんな判決でもそれは「権外」なのでうろたえることはない、何が起きても平静でいろ、それこそ「権内」の立派なあり方だ、というのです。
こういうエピクテトスが弁護士なら、依頼者の裁判の悩みには、「それはあなたの欲望の問題だから欲望を抑えろ」と言うかも知れません。
紛争は、要求と要求がお互いにぶつかり合って起こるもので、確かに、その根にはどちらにも欲望や支配欲があるかもしれません。
しかし弁護士の仕事は、依頼者の要求が法的に成り立つことを前提に(つまり「法律問題の権内」だということ)、裁判という司法制度を使ってその要求が実現できるか(つまり「弁護士の手腕の権内」かどうか)を、まず検討することです。
こういう「権内」の考えは、「心象だけだ」とするエピクテトスの考えからすれば、「権内」の範囲をずいぶん広げたように感じるかも知れません。
しかしエピクテトス自身も「小さな土地のことで問題が起きた場合、私は弁護人として他人を呼ぶだろう」とありますから、土地の紛争問題は、哲学者エピクテトスにとっては自分の「権外」で、弁護士の「権内」で扱うことだと認めているのでしょう。
また、「その意思があれば実現できる範囲」を「権内だ」と考えれば、現代では「権内」はだいぶ広がっています。
吉川さんたちも指摘している通り、労働者の権利とか会社の組織とか「法的にできる」範囲は広がっていますし、自然物の理解に加えパソコンやネットなど人工物理解などの人類の知を使って「権内」を広げることができます。
私たちの時代の「できる」範囲は相当広くなっています。

でも、弁護士が裁判の依頼を安易に引き受けて、実は「権外」で思うような解決ができなかったとなっては、依頼者にとっても弁護士にとっても不幸です。
弁護士が依頼を引き受けるに当たっては、問題が「法律問題の権内」であり、それが自分の「手腕の権内」で解決できるかどうかを、判断しなければなりません。
エピクテトスの教えでは、「日ごろの訓練の蓄積」と「自分に出来ることかどうかの自分の心象の十分な吟味」が欠かせません。これは弁護士にも当てはまります。

他人の「心の平静」を実現しようとするエピクテトスのようなストア派の哲学者も、他人の「財産の安定」を実現しようとする弁護士も、紛争の相談を受ければ、まず「その人にとっての『権内』はどの範囲か」を確認することが肝心ですから、その点は似ています。
しかし、その後の対応はまるで違ってきます。

哲学者エピクテトスは、紛争を「心象」の、つまり意思と欲望の問題だと考えます。
だから、自分の欲を抑えろと説教し、その人の心象自体を変えさせようとします。
しかし弁護士の仕事は、その人の「心象」を変えるのではなく(そもそも出来ません)、第三者である裁判官に、客観的な法的根拠と証拠を示してみせて、依頼者に有利な判決を出させることです。

複雑な現実の「紛争」については、哲学者は「権外だ」として対応してくれません。
しかし弁護士は、紛争になんとか解決の目途を立てようとします。依頼者の「権内」と自分の「権内」を見据えながら、出口を探して四苦八苦するのです。
弁護士の「権内」は、哲学者の「権内」よりだいぶ広くて騒がしいのです。
「だから、弁護士の悩みは相当に大きいのだ」と言いたいのですが、エピクテトス先生からは「お前が『権内』だと思って引き受けた以上、自分の責任なんだから、愚痴を言うな。」と叱られるでしょう。