麹町道草日和
ちょっと一息。みらい法律事務所の所属弁護士によるコラムです。

私は怒る、ゆえに私は存在する

デカルトが「方法序説」1637年で述べた「私は思う、ゆえに私は存在する」は、思考する精神と延長する物体という二つの実体を認め、それが近代的な自己概念の出発点となり、自然学の基礎付けとなった偉大な発見です。
この論法なら、「私は歩く、ゆえに私は存在する」と言えるはずだとガッサンディ(フランスの哲学者科学者1592-1655)は茶化しました(熊野純彦編「近代哲学の名著」中公新書)。
しかしデカルトが発見したのは、意識はあらゆることを疑わしいと考えることできるが、だからこそ、僞だと考えている当の意識の存在は否定できない、ということです。
「歩く」ことで発見する「歩いている自己」は、勘違いで実際は歩いていないかも知れませんから、自己が存在するとは言えません。
では「怒っている私」はどうでしょうか。
怒る原因には勘違いがあるかも知れませんが、怒っていると私が感じている以上、そう感じている私は存在する、と言えるのではないでしょうか。

怒りは、紛争の原因になる厄介なものです。
我々は年を取るにつれ、いかに怒りを抑えるべきかを学習します。
しかし、怒りのような「情動」は実は、有機体にとって必要な本能です。

神経学者アントニオ・ダマシオによれば、人間を含むすべての有機体は、その生体組織内の安定な状態(ホメオスタシス、恒常性)を常に求めます。
変化する外部環境に対応するため、有機体は外部刺激に対し、情動の反応によって有機体の状態を変化させますが、その目的は、有機体を「より快適な、より幸福な状態」、「中間よりも優れた命の状態」に導くことです。
ダマシオは、外部刺激への人間の反応について、「情動」と「感情」を区別します。
「情動」は、怒り・惧れ・驚き・嫌悪・喜び・悲しみというものです。「感情」はその情動反応を意識が評価した心的なものです。この情動があるからこそ、外敵に襲われたら逃げる・反撃するなどの防衛行動ができるのです。
有機体は、過去の怒り・惧れなどの情動と行動の経験を踏まえ、新たな事態への対処法を選択します。
人間の攻撃性はこの情動に由来します。
攻撃的なことは、人間に限らず有機体が自己保存を図る本能の現れだと、ダマシオは指摘します(「感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ」ダイヤモンド社)。

人は、なぜ戦争するのか。人間を憎悪と破壊という心の病に冒されないようにできるのか。
そう問うアインシュタイン対し、フロイトは真摯に考えて回答していますが、結論は素っ気ないものです。
人間には邪悪な破壊の欲望があり、憎悪への本能がある。
攻撃的性格は取り除けない(アインシュタイン、フロイト「ひとはなぜ戦争をするのか」講談社学術文庫)。

自己を保持したいというのは「生の欲動」でエロス的だと言われますが、攻撃的なふるまいができなければ自己を保持できない、とフロイトもいいます。
さらにフロイトは、人間には「死への欲動」がある、死の欲動は自分を攻撃するが、それが外に向けられると破壊欲動になると指摘します。

攻撃は返って不快な結果になることや、また迂闊な反撃が返り討ちにあって惨めな結末になることも、我々は自分の経験を通じて知っています。
人間は過去の経験をもとに情動を抑制しようと意図的に努力しますし、我々はその努力の積み重ねで残虐さや破壊を退ける文化を築いてきました。
しかし他面では、今日までの科学の発達が人間の攻撃力を高め、また、資本主義社会の発展が個人の孤立化を招き憎悪を広げてきました。世界がそういう発展を遂げたことには、デカルトの自我意識が少なからず影響しています。

デカルトの、意識と身体を分離した主体・客体という二元論が、ニュートン力学をはじめとする自然科学を発展させ、西洋に科学と工業による繁栄をもたらしたことは間違いないでしょう。
しかしこの自我意識は同時に、人間の攻撃性を、力づくで自然と他者を制圧する方向へ向かわせたのではないでしょうか。
最近再刊された「デカルトからベイトソンへ 世界の再魔術化」(文芸春秋社2019)で著者モリス・バーマンは、デカルトの自我意識は進化の袋小路だった、この自我意識が自然を客観・対象へと追いやって人間と自然を分離した、文化人類学者ベイトソン(1904-80)の多様な世界観を取り戻すべきだ、と批判します。
意識と身体は連続していて、人間の知は身体に生じ、脳はそれを拡大し整理するだけなのです。
アントニオ・ダマシオも「デカルトの誤り」(ちくま学芸文庫)で、脳だけに感じたり認識したりする機能を付与するデカルト流の認識論を批判し、スピノザのように身体全体で感じるという人間観を取り戻せ、と主張しています。

人々が複合的な自然システムに有機的に組み込まれているという、こうした認識に立てば、バーマンのいう「認知と情感が分かちがたく結びついた定常状態の社会」へ導かれ、人間の文化はデカルト流の「自然を抑圧する」ではなく、ベイトソン流の「自然を愛撫する」ものになったかも知れません。
ダマシオによれば、情動には共感、感謝、称賛、協力のような「社会的情動」があり、それが社会の団結や統一へ働きかけます。
人々がこの社会的情動を基に、他者の情動に配慮し、より尊重するようになれば、紛争での対立も和らぎます。
そんな社会にならないといけないと思います。

しかし残念ながら、現在社会では人々の「情動」は悪化し、他者の情動へ配慮も衰えています。
一つにはスマホの「攻撃バトルゲーム」のせいで他者への「攻撃性」が増しています。
さらに、日々私を「怒らせている」のは、スマホ歩きの人たちの傍若無人さです。
「怒り」は不快な相手の行動を阻止しようとする情動です。
しかし、スマホ歩きの「ジコチュウ人間」に注意しても、逆切れされかねません。
ぐっと我慢しますが、これは心と体に良くありません。
スマホ歩きがいない場所を心穏やかに歩きたいものです。