麹町道草日和
ちょっと一息。みらい法律事務所の所属弁護士によるコラムです。

「ノー」と言えないセクハラとヨシハラ

現代の職場の女性と遊郭・吉原の遊女を比較するなんて、とんでもない、とお叱りを受けそうですが、セクハラについて調べて感じたのは、どちら場合も、男性の「恋愛」幻想に対し、女性が「ノー」と言いにくい環境で働いている、ということです。

最近、大学での講演のためにセクハラの現状と判例を調べましたが、女性の、「ノー」と言わない、は決して「イエス」と同じではない、と改めて認識しました。

秋田県立農業短大セクハラ事件(控訴審:仙台高裁秋田支部判決、平成10.12.10)と航空自衛隊自衛官セクハラ事件(控訴審:東京高裁判決、平成29.4.12)は、どちらのケースも、女性が抵抗しなかった、抗議がなかった、女性からの迎合的なメールがある等として性的関係は合意の上だとした一審の地裁判決を、破棄しました。
控訴審判決では、女性はいやでもノーと言わないことがあるという被害者女性の言い分を認めて、男性教授や上司の男性自衛官の行動は、職務上の地位を利用した、女性の意に反したセクハラだと認定し、賠償を命じました。

セクハラが起きるのは、固定的・閉鎖的で階層的な格差のある職場で、男性が優位に立っていることが大きな要因です。
現代社会の職場では「性はタブー」であり、女性は男性と同じ労働者としてその場に勤務していますから、職場で女性を性的対象と見ることも、女性に性的役割を求めることも、当然厳禁です。だから遊郭とは180度違う職場環境です。しかし、どちらの場面でも「恋愛」幻想を抱く男性が登場して、女性たちを悩ませるのです。

江戸時代の遊郭は、「性と金」の取引の場に過ぎないのに、男性客に「恋愛」幻想を抱かせる仕組みと工夫にあふれています(三谷一馬「江戸吉原図聚」中公文庫)。
客は遊女に「恋愛」を求めますが、遊女の関心はもっぱら「商売」です。
客は、遊女の態度が偽装か本音か、金を毟り取られているだけなのか、見極めようとしますが、遊女の方は「客」を引き付けるよう取り繕うだけで、本音は見せません。
江戸時代の遊郭・大坂新町の遊女評判記「難波鉦(ナニワドラ)」(岩波文庫)には、そのやりとりが活き活きと描かれています。
本音を晒して客が逃げれば商売になりません。弱い立場の遊女が、嫌いな客でもイヤだと言わないのは当然です。
遊女は「ノー」と言えない職場で、嫌われないように、本音を出さず、用心しながら生きていかねばなりません。

現代の職場では多くの場合、男女間では職階の上下関係があって、女性はやはり弱い立場にあります。
上司の男性と部下の女性という不平等な関係では、自由な「恋愛」など生まれません。
なのに、部下の女性に「恋愛」幻想をいだいて、迫ってくる男性上司が後を絶ちません。
男性が階層上優位にあるので、現代の職場でも昔の遊郭同様に、女性は職場での地位を維持するために、男性の一方的な「恋愛」行動に対して、嫌でもノーと言えないことが多いのです。
それを男性の方は、勝手にイエスだと解釈してしまうのです。

最近の女性たちは、マスコミでの性的表現に「不快だ」とはっきり声を上げるようになりましたし、今の「#Me Too」運動も大物男性の思い上がりに、はっきり「ノー」を突き付けました。
しかし職場でのセクハラはなかなか無くなりません。
セクハラをなくすには女性が「ノーだ」とはっきり本音を出すことが一番ですが、職場で「ノー」の声を上げるのは簡単ではありません。

男性側が自制して、女性の本音を「忖度」した行動ができればいいのですが、逆に、男性は出世してエラくなったら、勘違いして「オレはモテる」と思い上がりがちです。
牟田和恵先生の著書「部長、その恋愛はセクハラです!」(集英社新書)は、上野千鶴子さんが「男性一人に一冊、昇進したら贈ってあげよう」と推奨している通り、「あなたはそんなにモテませんよ」と、そんな思い上がりをガツンと一発、戒めてくれます。

弁護士にとっての「昇進・出世」は、「独立開業」でしょうか。
そういえば昔私も、独立開業した時、ちょっとエラくなってモテるようになった気がしましたが、やはり錯覚でした。