麹町道草日和
ちょっと一息。みらい法律事務所の所属弁護士によるコラムです。

空を飛ぶことと、「私の世界」の境界・紛争

あらゆる紛争は「私の世界」の「境界問題」である、と整理できます。

誰にとっても、世界は、私が主人公である「私の世界」という特殊なものです。
サルトルは、私の未来は、私がいくつもの可能性から選択して決めるから、世界は「私の世界」なのだ、と言います。
朝起きて家を出て電車に乗る。すべて私が選択した行動で、私の体を移動させ、私は日々「私の世界」を創っていきます。
私は自由に体を動かせますが、空を飛ぶことは出来ません。

空を飛ぶ自分をイメージするのは、この上ない「開放感」と「万能感」を感じさせてくれます。「泳ぐことは、空を飛ぶことに次いで気持ちの良いことだ」(村上春樹「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」文春文庫)。自由に空を飛べるなら、それは理想の「私の世界」です。

でも、私の思うとおりに行かない外の世界が、「私の世界」を取り囲んでいて、そこに「私の世界」との「境界」があります。境界の外の世界は私の思う通りにはいきません。「世界は抵抗する」(ハイデガー)のです。
私たちの実際の生活では、自由に空は飛ぶ身体をもっていません。その境界は明らかで、空を飛ぼうとして墜落したギリシャ神話のイカロスのように、不変・堅固な境界に身体をぶつけても破滅するだけです。
紛争が起きるのは、私が「私の自由な選択が実現する世界」の範囲内にいるとイメージしているのに、実際は、私の思い通りにいかないからです。

場合によっては、境界線を引き直せば、紛争でなくなることもあります。
例えば、満員電車でひざがぶつかったり、強引に押されたり、誰でも一度や二度は不愉快な思いをしたことがあるでしょう。
私が「私の選択できる世界」の境界線を「快適な気分で通勤できる世界だ」と、考えれば、他の乗客が「私の世界」を侵害しています。これに文句をつけると紛争になりますが、文句をつけるのは、他人が「私の世界」の内側にいて、私が他人を変化させられると思うからです。

満員電車での「私の世界」は「快適でなくて良い。ただの身体として物理的に存在するだけで十分な世界だ」として境界線を引くと、無作法な乗客は「私の世界」の「境界外の存在」なので、私はほっておくことにします。
紛争にはなりません。身体だけが「私の世界」の境界線ですが、それが確保できただけでも、まだましです。
カフカの「変身」で、主人公グレーゴル・ザムザは「人間の身体」という最低限の「私の世界」の境界線さえ奪われてしまったのですから。
紛争は、すべて「私の世界」の「境界問題」だ、と理解したからといって、紛争が判って解決するわけではもちろんありません。
「私の世界」の境界線の見極めや変更は、難しいのです。

社会生活を営む以上、身体だけの存在でとどまってはいられません。勢い、他の人の「私の世界」の境界線で他人とぶつかることも起きてきます。
境界線は、物理的限界であることもあるし、他人が作る場合やあるいは社会制度上の壁となっていることもあります。境界にぶち当たったら、それが撤退すべき境界かどうか、をまず考えます。境界線自体に幅がある場合もあるし、境界に隙間があることもあります。抜け穴を見つけることができる場合もあります。

飛行機を発明したライト兄弟は、大事なのは「飛ぶこと」ではなく「暴れ馬を飛ばすためのバランスだ」と気づいて、境界を越えました。そして「私の世界」で大空を手に入れたのです(ケヴィン・アシュトン「馬を飛ばそう」日経BP社)。
人類は創意と工夫で、人類の「私の世界」のいくつもの境界を次々と突破してきました。私たち個人の「私の世界」の境界線も、創意と工夫で乗り越えることができる場合があります。大事なことは、境界にぶつかったのに、まだ「私の世界」の中にいる、と誤解しないことです。その誤解した認識のまま紛争に突入すると、負け戦になってしまいます。

紛争に巻き込まれたら、まずは、自分がどういう境界線にいるのか、その性質と構造を見極めることです。自分が間違って境界線を越えてしまって紛争となったのなら、あきらめて引き返すのも一策です。しかし、理不尽な、「私の世界」の境界線の侵害は、断固として拒否しなくてはなりません。

境界線問題が法的問題で、自分で押し返せないなら裁判所を利用しますし、もちろんそのための専門家として弁護士がいるわけです。