夢の中の裁判所
人はふつう一晩に5、6回は夢を見る、けれどたいていは覚えていないもののようです。でも夢の中身を思い出すと、一体どんな意味があるのだろうか、と考えさせられます。昔の人は不吉な夢を見ると、それが現実になることをとても恐れました。「夢は逆夢」と言ってみたり、法隆寺大宝殿の夢違観音様に、不吉な夢を幸福な夢に変えてもらうように祈ったりしました。今の人は夢が「未来を告げる」ものだとは思わないでしょう。それでも、不吉な夢より「楽しい夢」を見る方がいい。
高丘親王は「悪い夢はとんと見たことがありません。私が見る夢といえばまずは良い夢ばかりです。」「楽しい夢は思いだしてこそますます楽しくなる。夢とは思い出そのものである。」と言います。高丘親王は空海の十大弟子の一人で、貞観7年(865年)67歳で中国広州から天竺(インド)を目指ざす航海に出ます。渋沢龍彦の「高丘親王航海記」(文春文庫)では、親王が「楽しい夢を見る」と言ったばかりに、天竺に行く途中の国で「獏」に夢を食べられてしまい、楽しい思い出が無くなってしまってがっかりします。
私もよく夢を見ますが、およそ「楽しい夢」を見た記憶がありません。「ハワイに居て明日の裁判に間に合うように飛行場に行こうとするが、道路が崩壊して行けない。」「事務所が迷宮のようになっていて、事件記録があふれてしまって整理がつかない」「デパートが裁判所になっていて、迷路のようになり法廷にたどりつけない」。こういった仕事がらみの夢をよく見ます。後で思いだすと、夢の中の裁判所は、デパートみたいだったり、病院だったり不自然極まる情景ですが、夢の中の私は切迫した状況に焦ってしまい、絶望的な気分になっています。ほんとにリアルに感じます。なぜこういう夢ばかり見るのか。
夢は「現実生活で抑圧されたものを解消する」(フロイト)、「現実生活を補完または補償する」(ユング)ものとされます。そうすると私の夢は、現実生活での不安やおそれを先取りして予告し、それに備えよと警告しているのだと、解釈されます。いわば脳が、不安を身に染みて感じるように実感させ、それに備えて真剣に準備せよと、私に強いている訳です。フロイトやユングの言うように、夢は現実と切り離せず、現実生活での欠如感や不安感を反映しているようです。そして夢の画像がリアルなのは、そうでなければ現実生活での「経験」と同様な実感を与えず、現実生活を補完する警告の機能を果たさないからだ、ということになります。いわば、夢は善意で、リアルな映像でのうそをつくわけです。
鎌倉時代の名僧明恵は、文殊菩薩、孔雀明王の顕現や、自分が仏眼になる、塔に登るなど、信仰に結び付く夢を多く見ていますが、それは現実生活での信仰の不足を実感し、なんとか信仰をもっと極めたいと真剣に願ったからでしょう。敬虔な夢に助けられ、夢と一体になって信仰心を高めていった明恵は、文字通り「夢を生きた」と言えます(河合隼男「明恵 夢を生きる」講談社+α文庫)。
現実生活の欠如感不足感をリアルに実感させるのが夢なら、現実生活に「偽物の欠如感」を忍び込ませるのが、TVコマーシャルの与える「リアルな幸福感」の映像ではないでしょうか。この家に住めば家族が幸せになれる、この健康食品で元気になれる、この車でカッコよく旅行ができる、その商品やサービスが人生を幸せにしてくれる、と実感させためのTVコマーシャル映像のリアルさには驚嘆させられます。しかし、その裏のメッセージは「それがない今のあなたは不幸でしょう」という欠如感不足感のすりこみです。普段の日常生活では、それなしに平気で過している人々に対し、「ものがある楽しい夢」を人工的に造り出し、欠如感不足感をあおるのがTVコマーシャルです。リアルな映像という点は夢によく似ていますが、夢の「善意のたくらみの、うそ」と違って、TVコマーシャルは「善意でないたくらみの、うそ」ということになります。
現実の欠如感や不足感が産み出すのが夢だとすれば、「楽しい夢」を見るのは現実の生活が楽しいからではなく、むしろ「楽しさが足りないから」ということになります。皇太子を廃されて出家した高丘親王の人生は楽ではなかったでしょう。もっと楽しい人生を求めて「楽しい夢」を見たかったのでしょうし、航海に出たのもそういう思いからでしょう。虎害で亡くなったといわれる親王ですが、「捨身飼虎」を行った伝説の釈迦のようになることが、彼の楽しい夢だったのではないか、という気もします。
こういうことをいろいろ考えると「不安な夢」もそう悪くはありません。私は、今夜も夢の中で不思議な裁判所の中でうろうろと道に迷うかもしれませんが、警告を発する、そんな夢には感謝しましょう。