麹町道草日和
ちょっと一息。みらい法律事務所の所属弁護士によるコラムです。

「仕事」が「労働」になると「組織病」が発症する

出版社を経営しながらモノ書きをしていた山本七平は「好きなことだけでメシを食っている」と小林秀雄を羨ましがっていました。学生の頃、深夜ラジオでのシンガー・ソングライター吉田卓郎の放談気味のおしゃべりを聴いていて私も同じような感想を持ちました。もっとも、傍目にはそう見えても、仕事である以上おそらくは嫌なことが全くないということはないでしょう。私も仕事のことでぼやくとカミさんに「好きで弁護士になったのでしょう」と言われるので、イエではぼやかないことにしています。

さて、好きな仕事かどうかだけでなく、組織の中で働くかどうかによって仕事から来る圧力がずいぶんと違ってきます。糸井重里と南伸坊の「黄昏」(新潮文庫)を読むと、組織に縛られないでのびのびと好きなことをしている二人の楽しい会話が「仕事」になっているという幸福感で満たされます。山口晃画伯の「すずしろ日記」(1・2とも、羽鳥書店)も、画伯とカミさんの丁丁発止の楽しいやり取り絵日記が「仕事」になっていて、とても愉快な気分になります。それらと対象的に、組織に縛られるという不幸感が迫ってきて息苦しくなるのが、瀬木比呂志の「絶望の裁判所」(講談社現代新書)です。瀬木さんは好きで裁判官になったのでしょうが、どうもこの本での瀬木さんの、うつうつとした様子は「組織病」の症状じゃないか、と思えます。

裁判官が裁判所という「組織」に従属して、「仕事」workが「労働」laborに変質させられています。「労働」とは使用者に「従属」したもので、「仕事」はいわば自らが働き方の主人公となるもの、といえるでしょう。洋の東西と問わず、どうすれば「労働」である働き方を、自らが主人公となる「仕事」にできるのか、という課題がありました。それを西欧では「ギルド・職業組合」で「親方」になることで解決したのに対し、日本は「正社員」になることで解決しました。つまり日本では、潜在的には誰でもが将来の経営者である「会社員というメンバーシップ」に参加することで、自らが労働の主人公になれたという訳です。そして、それは西欧に比べ悪くない制度だと評価されます(佐藤俊樹ほか編著「自由への問」6「労働」岩波書店)。

しかしメンバーシップは別の問題を起こします。それが「組織病」につながるのではないでしょうか。武田晴人は「近代的な」労働は「組織のなかでの労働」なので「不自由」さがあると指摘しています。(「仕事と日本人」ちくま新書)。」労働がつらいのは「組織」のなかだからです。組織の中にいる以上、自分がメンバーとして労働の主人公になっても、他のメンバーも主人公であり、そこから「組織の圧力」がかかります。

それは企業でも裁判所でも同様でしょう。瀬木さんは人格下劣なあるいは教養がない裁判官を痛烈に批判していますが、裁判所が組織としての純化を進めている現状では、それは顧みられないささいなこととされているのでしょう。裁判官に一番尊重されるべき独立した判断という「仕事」が、組織優先のために侵害される事態が起きています。

「組織病」の原因は、メンバーがメンバーを管理するという「メンバーシップ」にあります。強権的な使用者や支配者がいるからではありません。裁判所も日本の企業も、組織をコントロールしているのは外からの力でなく、ほかでもない組織のメンバーそのものです。裁判所も昔の司法省なような監督機関があるわけではありませんし、多くの企業も会社のメンバーが、つまり自分自身でコントロールしているのが現状です。そして組織メンバー自らが統治することになれば、メンバー間の「出世競争」が必然となり、大きい組織ほど組織と一体化するメンバーが組織の中で優遇され、組織維持を優先しないメンバーは排除されます。その抑圧で、組織との不適合による「組織病」が発症します。大企業でよく見られる心身症はこの「組織病」が下敷きになっているのではないでしょうか。

会社でも裁判所でも外部モニタリング制度がありますが、それが「組織病」に効き目があるとは思えません。それでも会社の場合は「労働契約法」という解毒剤があります。人事の不公平さに対し「権利濫用だ」と異議を唱えることができますが、裁判官に労働法の適用はありません。組織従属的な「労働」に従事する裁判官だけが優遇されるようでは、やはり「絶望」の裁判所というほか無いでしょう。

それでも我々弁護士は、裁判所の門を叩かざるを得ません、ひたすら「仕事」をしてくれる裁判官に巡り合えることを祈りながら。