麹町道草日和
ちょっと一息。みらい法律事務所の所属弁護士によるコラムです。

「『公』野の用心棒」

弁護士に「公益性」はあるのか。

波頭亮さんは、「本当のプロフェッショナル」とは、知識や技術に裏打ちされた職能で稼ぐだけではなく、それを使って「公益のために、使命感を持って仕事をしているかどうか」だ、としています(「日本人の精神と資本主義の倫理」幻冬社新書)。後で述べるとおり、「公益性」は、今の日本では有効な概念だと思います。

弁護士は、医師や経営コンサルタントなどようにプロフェッショナルの典型にようにいわれます。プロフェッショナルは、自分の専門知識や技能を売りものに、組織に縛られぬ独立性を持ちますが、依頼者の意向に左右されざるを得ません。そして、弁護士が医師や経営コンサルタントと決定的に違うのは、紛争当事者の一方に加担する、ということです。また紛争に関する職業でも、公平・中立の立場で行動する裁判官や検事の公益性は明らかでしょう。弁護士も、正義に仕えるなら、公益性があると言えるでしょうが、そうはいきません。

勧善懲悪のスタイルを守るテレビ時代劇では、水戸黄門も大岡越前も暴れん坊将軍も、すべて主人公の「正義=権力」という立場が、悪退治の実効性を保証する構造になっていますが、「用心棒」「椿三十郎」「7人の侍」といった黒澤明の映画では、私人である用心棒や野武士の知恵と武闘能力・技量だけが「正義」実現の力を担っていて、正義と権力の親和性は意識的に避けられています。西部劇映画「荒野の用心棒」の「ピストル対ライフル銃」の対決は、本家「用心棒」の「剣対銃」という不自然さを解消するのが目的ではなかったかというほどしっくりきますが、この剣なり銃なりが、依頼された用心棒が頼る唯一の「力」です。

そして、いずれでも、紛争に飛び込む第三者たる用心棒が仕える一方当事者、農民や弱者に「正義」がある、ということは当然の前提となっています。つまり、観客は、用心棒が勝利することが、すなわち「正義」の実現である、という結末を安心して見ていられるのです。

村上式シンプル英語で一躍注目浴びてペーパーバックが店頭にずらっと並んだロバートBパーカーの、探偵スペンサーは、彼の考える「正義」を、私的軍隊を使って実現してしまいますが、これも「正義」と「実現」がワンセットになっています。

弁護士は、ある紛争や事件で、一方当事者から、経済的対価によって雇われる点は、用心棒や私立探偵、ボディガード等と似ています。雇う側の基準は、そのプロフェッショナルとして技能でしょうが、雇う側に正義があるとは、限りませんし、仮に、正義だから受任する、としていても、依頼者が正義で、相手が悪、という前提自体が確定していません。そもそもどちらに正義があるか、決めかねるものがほとんどです。少なくとも双方が「われに正義あり」と主張しますし、裁判官が無理解なら判決で負けてしまい、正義が実現するとは限りません。「正義」を「実現」するという裏付けのない仕事、この「私的傭兵」として私益を守る立場にある者に、「公益性」があるのかといえるのか、本当のプロフェッショナルといえるのでしょうか。

かつてTVで「西部の男、パラディン」という魅力的な主人公の西部劇がありました。彼は、”HAVE GUN, WILL TRAVEL”「銃あり、どこでも参上」という名刺で売り込む、雇われガンマンです。

弁護士も雇われガンマンにたとえられますが、さしずめ、「バッジあり、どこでも参上」というところでしょうか。私どもの事務所でも、モア・ザン・エクスペクテッド、期待される以上にやれ、と顧客重視を売り物にしています。技量や能力の研鑽に励むのは、いい仕事をして、多くの顧客の満足を得るためです。そのどこに「公益性」があるのか。

藤原伊織さんが直木賞をとった「テロリストのパラソル」という小説に「僕らは世界の悪意と戦っている」というセリフがあります。パラディンの魅力は「正義の味方」や「正義」の「実現」ではありません。雇われながらも自立したプロフェッショナルとして行動し、この行動の基準となっているのが、「揉め事の解決」という、「世界の悪意との戦い」です。これが、彼が信じる行動原理の「公益性」だと思います。「官」の下請けでもない、ささやかな、いわば、荒野の公益性です。

私どもの事務所も、依頼事項が悪であると判断した事案は受任しません。しかし、明確に正義の味方だ、と判断できなくとも、我々の弁護士の仕事は、「紛争を解決する」ということを通じて、社会の中にある「世界の悪意」を少しでも減少できるものだ、と思います。これが「公益性」であり、さしずめ、世間としての「公」の分野での用心棒、「公野の用心棒」と自負していいのではないか、と思います。

「公共性」「公益性」が盛んに論じられるのは、今の閉塞した日本の現状を反映しているといえるしょう。

佐々木敦さんは「公共性」が、リアルな問題としてではなく、思想をするためのプレテクストとして「ルール」として使われていると指摘しています(「ニッポンの思想」講談社現代新書)。国家理念のない、今の日本の現状を打開するキーワードとして一番有効な言葉かもしれません。この「公」の中身は、問われるべきでしょう。

「公」は、「公務員」というように国家・政府という権力装置「官」と、「公衆」というように世間・社会という「民」の、どちらにも繋がる言葉だと思います。鈴木浩三さんの「江戸商人の経営」(日経新聞社)によれば、江戸がわずかな数の与力・同心で維持できたのかは、町年寄などの自治組織が、公儀の「官」と、町人の「民」を結ぶものとして「公による経営」が自律的に機能したからであるとしています。これは、「官」の下請け組織としての機能を、民が「公」という形で担ってきた、ということでしょう。

「公益性」「公共性」も、果たして、「官」の下請に過ぎないのか、あるいは、「民」の共通の利益に資する自立した機能か、ということを問うた上で、中身をリアルに具体化する必要があるでしょう。今の日本の閉塞状況を打破するのは、後者の立場での「公共性」「公益性」の実現だと思います。