麹町道草日和
ちょっと一息。みらい法律事務所の所属弁護士によるコラムです。

蘇(よみがえ)る「アンティゴネー」とローマ法

ソフォクレス(あるいは「ソポクレース」紀元前497-前406)のギリシャ悲劇「アンティゴネー」(岩波文庫、中務哲郎訳)は、オイディプス王の娘アンティゴネーが、テーベの王クレオンの禁止に関わらず、テーベの敵として戦死した兄を埋葬したために、処罰される話です。

フランスの劇作家ジャン・アヌイ(1910-87)がこれを戯曲にしたのが、「アンチゴーヌ」です。
大学に入学した直後、駒場寮で同室だった文学部のI君に誘われて、S女子大の演劇部が上演したこの劇を、観に行ったことがあります。
I君の年上の彼女は「クレオン」役を演じましたが、とても重厚な印象でした。
同じ歳なのに年上の恋人がいて演劇・文学に精通しているI君は、とてもカッコいい大人に見えました。
それに引き換え自分はどうか、幼稚な田舎者じゃないか。
そう思い知らされ、とても落ち込みました。

学生時代の「アンチゴーヌ」の記憶を蘇らせてくれたのは、紀伊国屋じんぶん大賞2019の「誰のために法は生まれた」(木庭顕東大名誉教授、朝日出版社)です。

アンティゴネーの物語は、自然の法と国家の法の対立という解釈が一般的ですが、木庭先生は、かけがえのない個人の連帯を求めるアンティゴネーと、集団主義の秩序を求めるクレオンの対立だ、と指摘しています。
そして、集団から個人を守るために法は生まれた、というのが木庭先生のこの本のポイントです。

西欧の法の起源は、紀元前5世紀のローマ法にさかのぼります。
ローマ法の権威である木庭先生によると、当時のローマには、ギリシャから受け継いだ、自立した個人からなるデモクラシーがありました。
そのローマで突然、「占有」原理が誕生し、これが後の民事法の基礎となりました(「ローマ法案内」羽鳥書店)。
「占有」とは、誰に所有権があるかはさておき、現状そのモノと結びついている人を保護する、という考えです。
暴力など実力での現状の侵害を禁止するのです。
木庭先生は「誰のために法は生まれた」で、とりわけ大事な「占有」は、個人の「精神」と「身体」である、占有を尊重する法はグルになって圧力をかける集団や徒党を解体する、追い詰められた一人を保護するために法は生まれた、と解説しています。

この「占有」優先のローマ法の思想は、木庭先生が日本の最高裁判例を引用して批判しているように、現在の日本の法律実務上は消えてしまっています。
日本の近代化は、西欧の法律制度・法学教育の導入からスタートして今日に至っている筈なのに、どうしてでしょうか。

内田貴先生の「法学の誕生」(筑摩書房)は、明治初期にイギリスやドイツに留学した穂積陳重(1855-1926)らが、近代国家を築くために西洋の法学を学び、日本に「学問としての法」を定着させようと悪戦苦闘した様子を活写しています。穂積が影響を受けたのはドイツ・ベルリン大学総長となり「近代法学の祖」と称されたサヴィニー(1779-1861)の教えです。
サヴィニーはローマ法の権威でしたが、穂積にはローマ法の源泉まで汲み上げる余裕はなかったでしょうし、同書によれば、そもそもサヴィニーは「法学」を「近代官僚群を養成するのに不可避な手続だ」と位置付けていました。
その教えを受けて出発した日本の近代化のための法学も、官僚養成のためのものになり、ローマ法の「占有」優先という個人重視の精神は伝わりませんでした。
西欧の法の源泉たるこの精神を欠いたこともあって、近代化のための日本の法の受容は、未熟なものとならざるを得なかったのでしょう。

木庭先生は「現代日本法へのカタバシス」(羽鳥書店、「カタバシス」とは「降りる」こと)で、東大法学部の学生を念頭に、近代化としての日本の法の受容は未熟なものであり、かつ法学部の学生は、西欧のような哲学などの高度な中等教育の下地もないまま、つまり未熟なまま、未熟な法を受容しなくてならないという困難を指摘しています。

「誰のために法は生まれた」では、「アンティゴネー」以外にもギリシャ・ローマの古典から溝口健二監督の「近松物語」やイタリア映画「自転車泥棒」などの名画まで幅広く取り上げられています。
これらを素材に、木庭先生が中高生と丁々発止とディスカッションを繰り広げ、そして「徒党を組んで実力でなされる侵害から、個人を守るために、法は生まれた」というテーマに辿り着く筋道は、とてもスリリングです。

この本を読むと、「法」というものを本当に深く理解するには、古今東西の古典や世界史の知識が不可欠だ、と痛感させられますが、私も含め、日本の法律実務家にはそういう「教養」が決定的に不足しています。
実は、古代ローマ法は西欧でも一時忘れ去られ、中世に再発見され蘇りました。
木庭先生は、ローマ法を論じて「法」の原型を蘇らせようとしています。
それは、「ローマ法案内」に「現代の法律家のために」という副題がついているように、未熟なままの現代日本の法律実務家全体に対し「このままでいいのか?!」とカツを入れるためだと思います。
スマホは脇に置いて、もっと本を読もう!!