麹町道草日和
ちょっと一息。みらい法律事務所の所属弁護士によるコラムです。

弁護士の理想、運慶

運慶は弁護士の理想です。

東京国立博物館の仏像の企画展は、テーマの魅力、展示物の豊富さ、考証の緻密さで、どれもとても興味深いものですが、何もよりもそのレイアウト、「観せ方」の行き届いた工夫が多くの仏像ファンを惹き付けるのではないかと思います。

「運慶展」(2017年)の展示も見応えがありました。
特に、間近に観た興福寺南円堂の四天王像は圧巻でした。
台座に乗った2メートル近い大きな四像、持国・多門・広目・増長の四天王が、一つの会場の四方に配置されていました。
どれも躍動感に溢れ、その配置に囲まれた空間内はエネルギーに満ち溢れていました。
もとは、興福寺南円堂の本尊と同じように、運慶の父康慶一門の作と考えられていましたが、現在では、運慶の統率の元に運慶の息子たちが造った像だというのが定説のようです。

この四天王像は、有名な無著・世親像の「静」に対して「動」を対比しているとされます。

運慶自身、熱心な仏教僧であり、仏像を魂の宿る「生身(しょうじん)」として制作したので、仏様が実在しているかのように感じられます(金子啓明「運慶のまなざし」岩波書店)。運慶の仏像は生命力がみなぎっています。

生命力ある「動き」では運慶の「仁王像」も有名ですが、夏目漱石の「夢十夜」には、運慶が仁王像を彫っているのを見物している夢が登場します。

見事な鑿さばきについて、「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」という見物人のコメントを聞いて自分も試みますが、木の中に仁王は居なかったという話です(第六夜)。

天才は、木や石の塊を見て、その中に立体像の完成図をイメージできるので、後はそのイメージ通りに像を彫り出す、あるいは掘り出すだけです。
ミケランジェロにも、「どうやってダビデ像を彫るのか」と尋ねられて「ダビデでない部分を削り取ればいいのだ」と事も無げに答えたという、似たような逸話があります。

弁護士が求める紛争解決も、こういう具合にならないものかと、つい考えてしまいます。
紛争はごちゃごちゃした外見をしています。
木や石といった静かな素材とは真逆ですが、同じように外見に惑わされず、紛争の最終形が紛争の中に見出せて、解決を実現するためには余計な部分を削り取る作業するだけ、そうなれば理想の弁護士です。

ヴァレリーには「岐路に立つソクラテス」を描いた作品があります。
冥府でのソクラテスが、海岸でわけのわからない物体を見付けて佇んだ若い頃を思い出します。
結局ソクラテスは、考える対象ではないとしてそれを放り投げたのですが、振り返って、その岐路で芸術家への道を捨てしまったんだと嘆くのです(「エウパリノス」という古代の建築家の名前を標題とした対話篇)。
ヴァレリーにとって、わけのわからないものに取り組むレオナルド・ダ・ヴィンチのような芸術家の精神の方が、「知る」専門家の哲学者よりはるかに優れているのです。

わけのわからないものに興味を持つのが、芸術家の創造力です。
弁護士も、わけのわからない紛争の塊に興味を持って取り組み、その混沌の塊から秩序ある解決を見出して掘り出そうとするものです。
弁護士に必要なのは、哲学者の「知」より、芸術家の「創造力」ではないでしょうか。

弁護士が、運慶のような眼力と腕前を備えて、複雑な紛争の塊からすっきりした解決を掘り出すことが出来れば、名弁護士の域に達したと言えるでしょう。

しかしそれには、技能や努力だけでなく、運慶のように、人々を救済したいという無私で真摯な信仰心も必要でしょう。
名弁護士への道はなかなか険しいようです。