麹町道草日和
ちょっと一息。みらい法律事務所の所属弁護士によるコラムです。

あの本はどこに行った?

共同事務所の良いところは、一冊の本を皆で共有して利用できることです。

法律書の場合は、かなり高価ですし、コメンタールのように数冊のシリーズを揃えるとなると場所も取ります。しかも、法律書は賞味期限が限られていて、常に買い替えないといけません。
法律が改正されたのに古い法律のままの解説書で仕事をしては間違います。判例も定説もひっくり返ることもしばしばあります。賞味期限切れの本は「毒」になる可能性があります。頻繁に買い替える必要がある場合、むしろ紙の本を共同で使う方が重宝です。

電子書籍ではそうはいきません。電子書籍は読む人を限定します。ネット上の本には所有権がありません。アクセス権が特定の人に許諾されているだけです。紙の本のようにみんなで使い回す、という訳にはいきません。

「インターネットの次に来るもの」(2016年NHK出版、原題はthe inevitable不可避)でケヴィン・ケリーは12の未来の不可避な法則を挙げています。法則「フローリング」では、紙の本の固定性からデジタル本の流動性へ移行して、すべてが「流れていく」と予測しています。
また法則「アクセシング」によって「所有権の購入からアクセス権の定額設定」へ向かい、「独占的・排他的」な本来型の「所有権」は否定されるだろう、というのです。そうなると、紙の本はどうなるのでしょうか。

ケヴィン・ケリーのこの本への、岡ノ谷東大教授(生物心理学)の書評(読売新聞)はとても興味深いものでした。この本を電子書籍で読んだが、心に残ったものは少なかった。書評を書くために紙で再読しなければならなかった、というのです。私も電子書籍でこの本を読みましたが、時々メモを取らないと頭に入らない(老化のせい?)。

電子書籍は「所有」でない典型例です。電子書籍の良さは、かさばらない、検索ができる、どこに置いたか探す手間がない、など。
悪い点は、ざっと見るという一覧性がない、しるしがつけにくい、書き込みができないことですが、加えて、心に(頭に?)残らないというのは、読書に身体の関与が少ないからではないでしょうか。
何度読んでも手垢がつかない。他ならぬ「私が読んだ」という痕跡を感じさせない。電子書籍では人差指を動かすだけですが、紙の本は「物」なので、読むには手を使い本の重さを体感します。自分で手に持つ紙の本には「所有」しているという身体の実感があります。

「世界を変えた100の本の歴史図鑑」(ロデリック・ケイヴ&サラ・アヤド著 原書房)には古代エジプトのパピルスから現在の電子書籍まで本の歴史が紹介されていますが、日本では770年ころ称徳天皇が命じた「百万塔陀羅尼」があり、そこでは8枚の青銅版を使い仏教の経本が12万5千枚も印刷されていたのです。ヨーロッパの鉛版印刷の実に千年も前です。グーテンベルクの活版印刷(1450年ころ)よりずっと前に日本で印刷本があったなんて、驚きです。

こういう本の歴史を振り返ってみても、紙の本への愛着は相当根深いものがあります。この図鑑の著者も「本は単なる文字の乗り物を超えた存在」であり続けるだろうと予想しています。

また、本の共有は、ケヴィン・ケリーの法則「シェアリング」「共有化する」という未来志向にも合致しています。

でも紙の本の共有にも問題はあります。誰かが使ったまま、本が元の本棚に戻っていないと、「あの本はどこに行った?」と探さないといけません。
事務所の共有メールで、「だれか菅野教授の労働法を使っていませんか」とか「会社法のコメンタールを使った人は本棚に返しておいて」、そういう問い合わせが、今日も事務所内で飛び交っています。