ちょっと一息。みらい法律事務所の所属弁護士によるコラムです。
放送大学で面接授業を担当して多くの聴講生に接していますが、いかにも定年後と思われる方や、年配の女性の方が多いのに感心させられます。私の授業は法律関係なので、文学や歴史などの授業と違って到底面白いとは思われないのですが、毎回熱心に聴講される高齢の方々が目立ちます。「死ぬまで勉強だ」という意識をお持ちの方々増えているのはとてもいいことで、なによりもボケ防止になりますが、「人間は、知という造物主がこしらえた最近の被造物」である(M.フーコー)ことを考えると、死ぬまで知的活動を止めないことが、その人を人間として存在し続けさせる効果があるのではないでしょうか。
「死ぬまで勉強だ」ということについて、私の好きな名言はマリア・ミッチェルMaria Mitchell (1818-89)という女性で初めてアメリカ科学芸術アカデミーの会員となったアメリカの天文学者が残したものです。
Study as if you were going to live forever; live as if you were going to die tomorrow.
「永遠に生きるかのように勉強し、明日死ぬかのように生きなさい」
生涯学習について、文科省は平成24年2月「人生の締めくくり方」の学習も加えるようにという報告書をまとめました。確かにぼけてからでは、自分が死ぬんだという意識もなく、その準備など到底おぼつかないでないでしょうが、「死ぬ準備の学習が未完成なので、死ぬのは待って」という訳にもいきません。勉強は、死には「いつでもいらっしゃい」という覚悟をしながら、しかもずっと続けること自体に意味がある、このミッチェルの言葉こそ生涯学習の「知」の精神に相応しいのではないでしょうか。
この名言は「永遠に生きる」と「明日死ぬ」という反対の状況をワンセットにしたところも機知に富んでいますが、面白いことに、インド独立の父ガンディMahatma Gandhi(1869-1948)も同じような名言を残しています。
Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever.
「明日死ぬかのように生き、永遠に生きるかのように学びなさい」
ガンディの方は順序が逆で「生きなさい」が前に来て、studyがlearnとなっています。
オックスフォード現代英英辞典の説明を直訳すれば、studyスタディは「主に本から、ある主題について知識を得る手順process of gaining knowledge of a subject,esp from books」とあり、learnラーンの方は「知識や技能をstudyや経験、教育によって得ることgain knowledge or skill by study,experience or being taught」とありますので、learnの方はstudyや経験などから学ぶことも含む広い意味に使われるようです。例えばアメリカ第26代大統領のセオドア・ルーズベルトは「listen and learn(耳を澄まして、学べ)」という名言を残していますが、自分の周囲に注意して耳を澄ませていれば、多くのことを学ぶ(learn)ことができる、という具合に使われています。宮本武蔵の言葉と言われる「我以外皆師也」(自分以外はすべて何かを教えてくれる自分の教師である)もlearnと同様な意味に理解されるでしょう。周囲に気を配って謙虚に生きていけば、learnという意味では人は常に何かの教訓を得ることができる、という訳です。
さて、そうであれば、あえて「永遠に生きるかの如く」でなくてもlearnとしては学ぶんではないでしょうか。
ミッチェルの方のstudy「学びなさい」は「刻苦勉励」「自分で学習せよ」というメッセージが感じられます。また「学びなさい」が「生きなさい」より前に来ていることでも、生涯学習への意志がより強く感じられます。そして「生きなさい」という後段の表現も、前段終わりのlive foreverの直後に live as if…と続いており、表現上のリズムにも妙味があります。
という訳で、「死ぬまで勉強だ」には、スタディstudyというミッチェルの名言が相応しいと私は思うのですが、皆様のご意見はどうでしょうか。
文責西尾(平成24年2月6日)
私も弁護士35周年を迎えます。弁護士の仕事には転勤や昇進などの区切りがありません。事務所の若手弁護士には、もっと日々自覚をして努力を重ねる必要がある、そうしないと何もしないであっという間に時間だけが過ぎてしまう、と警告しています。
わが事務所の若手弁護士の結婚式は、新郎のみならず出席した若手弁護士を叱咤激励するいい機会です。私は2回の結婚式のあいさつで、それぞれ「大」弁護士になれ、「名」弁護士になれ、とはっぱをかけました。要は、目先の報酬だけを追いかけるのではなく、また、安易に「大事務所」とか「有名弁護士」を目指すのではなく(ちょっと私の僻みがあるかも知れませんが)、高い志を持って社会に有益な仕事をして欲しい、ということです。
まず、「大」弁護士。普通の弁護士とどこが違うか。
これは、普通の「王様」や「皇帝」と、「大」がつく「大王」や「大帝」とはどう違うのか、比較すれば判りやすいと思います。
マケドニアのアレキサンダー大王は、紀元前4世紀にギリシャ・エジプトからインドまでの大帝国を築き、東西を融合させヘレニズム文化の幕を開けました。
コンスタンティヌス大帝は、90人の古代ローマ帝国皇帝のうちただ一人「大」がつく皇帝ですが、4世紀統一帝となり、キリスト教を公認しました。後にキリスト教国が世界の主流になったから「大帝」を献じられた、と塩野七生さんは皮肉っていますが、現代まで続く、欧米で発展したキリスト教国家の出発点となりました。
8世紀フランク王カール大帝は、西ローマ帝国を復活させ、西ヨーロッパの政治的統一を成し遂げ、今日のEUの基礎を作り、「ヨーロッパの父」と称されます。10世紀には、神聖ローマ帝国を創生したオットー大帝(ドイツザクセン朝)が出ました。その他には、17世紀ロシア帝国を確立したピョートル大帝、18世紀プロシャ絶対王政の頂点を築いたフリードリッヒ大王、などの大帝・大王がいます。
生前に「大王」や「大帝」という称号を奉じられるのは例外なく他国を侵略した王である、とここでも塩野さんは鋭い指摘をしていますが、普通の、王や皇帝は、自国内での統治・王位の安定・他国からの侵入排除など、国内のことだけでも精一杯なのに比べ、これらの大王や大帝は、一国内の事跡に留まらず、さらに国という「枠」を超えた大きなチェンジを齎し、世界史的規模で新たな時代を開いた人物だ、と評価されるのではないでしょうか。
私は日ごろ事務所の皆に、「壁を破れ」Every wall is a door to your future.あらゆる壁は未来への扉である、と檄を飛ばしています(前半はエマーソンの名言ですが、後半は私が付けたしたものです)。
自分の壁を破るだけではなく、弁護士という従来の概念の壁をも打ち破って、スケールの大きな大弁護士になってほしいと思います。但し、オットー(夫)大帝にはなるな、夫としては「小」夫だと、釘をさしておかねばなりません。
さて、次に「名」弁護士です。名人、名探偵、など、どうすれば「名」がつくようになれるのか。
「名文」の場合を考えてみましょう。谷崎・三島・丸谷・井上ひさしまでの文章読本、中村正さんの「名文」の書き方などを読んで、どうすれば「名文」が書けるのか、私は悩んだ末に、ポイントは2つだ、と気付きました。1つは、自分にしか書けないことを書くこと、もう1つは、誰にでも受け入れられる方法で書くということです。
一言で言うと、「みんなに認められる独創性」オリジナリティだと思います。これが「名」がつくポイントではないでしょうか。
例えば「私の母」というテーマは、誰でも書けますし、また、個人的エピソードを、他人が読んで面白い、という名文にするのはまず無理、とされます。しかし、さすがに、小林秀雄は別格です。フランスの哲学者ベルクソンを論じた「感想」という作品の冒頭で、おっかさんが蛍になって飛んでいた、という話が出てきます。蛍や水道橋ホームからの転落事故の記述を通じて、私たち誰にでもある、母親への感謝と愛情と憧憬を、鮮やかに呼び起こしてくれる名文だと思います。
では、どうすればそういうオリジナリティが身につくのか。この「感想」の中で小林秀雄は、人がオリジナリティに出会うためできることは、「自我の自然的な、社会的形成に逆行する烈しい、果てのない努力ができるだけである」「絶望に耐えながらの長い忍耐」である、と断じています。
みんなから「彼にしか出来ない」と信頼され、依頼者が殺到する、そういうオリジナリティ溢れる弁護士になるために、人並みではない努力・精進を重ねて欲しいと思います。
ちなみに、「感想」はベルグソンが生前出版を禁じた話からベルグソン論が始まりますが、この時点では、まさか自分がこの「感想」の出版を禁じることになるとは思っていなかったでしょう。文筆を残す文筆家の宿命と思索の苦悩の跡を共に残したベルグソンと小林秀雄、二人の因縁を感じざるを得ません。
ところで、この世には、どんな名探偵でも解けない、名弁護士でも解決できないなぞがあります。フロイトは「女性のなぞについては、人類はいつの時代にも
文責西尾(平成22年12月6日)
今の「法化」が進んだ日本社会では、企業はコンプライアンスを無視しては存続できません。私は、放送大学でコンプライアンスの講義を担当していますが、講義内容を「合気道的コンプライアンス」と表現しています。
私が武道学園(日本武道館)で合気道を習い始めてから、平成22年で12年目になります。なんとか二段を拝受して今もけいこを続けていますが、何と不思議な武道だ、といつも感心しています。というのは、合気道では基本的には「受け」の技しか稽古をしません。正面頭上から手刀で打ち込む攻撃に対しそれをどう防ぐか、拳で脇腹を突かれたらどうかわすか、腕を掴まれたらどう捌くか、という「受け」の稽古が延々と続きます。そして、受けの技は、攻撃を見極め、攻撃者の勢いを利用して自分を防御するために繰り出されるのです。
私がコンプライアンスを「合気道的」に理解すべきだと強調するのは、コンプライアンスは「法化社会」における危険排除の、いわば「消極的」な機能を発揮すべきものだと思うからです。つまり、行政やマスコミから「規制」「処分」「非難」を受ける「危険」から企業を「防御」するのがコンプライアンスなのです。
コンプライアンスは直訳すれば「法令順守」です。欧米ではcompliance to lawと文字通り「法令」の順守、と意味は明確なのに、わが国では、「法令の文言のみならず、その背景の精神まで順守・実践していく活動だ」として、英語なら企業倫理(Business Ethics)、倫理法順守(Ethics-Legal Compliance)である、と説明されます(高巌「コンプライアンスの知識」第2版 日経文庫)。
輸入概念なのに日本で解釈が拡大されるのもおかしな話ですが、その背景には三井物産や三菱自動車などの大企業で起きた不祥事があります。超一流企業で立派な規則や組織が出来あがっていて、社内での規程類の順守も徹底していたのに不祥事が発生してしまった、それは「倫理」不足が原因だ、とされました。企業不祥事を防ぐためのコンプライアンスには法令や規則類の順守だけではなく「倫理」の順守も求めるべきだされるようになったのです。
こうして企業のコンプライアンスには、「倫理」という精神的価値の実現も含む高度で広範囲な「積極的」な機能が求められるようになりました。しかし、これはいかにも日本的な現象であって、本来の「法化社会」に動きに逆行するおそれもあるのです。
「法化社会」とは、社会における法律での規制範囲が広がり法制度や司法制度への依存性が高まることを意味します。「共同体的紐帯に個人が縛られてきたというわが国の歴史的経緯を考慮すれば」日本社会の「法化」は望ましいことだと評価されています(服部高宏「法哲学(第2章 法のシステム)」有斐閣アルマ)。つまり、従来「集団的秩序」の下にあった日本社会の「共同体的紐帯」から個人が解放され、日本は「法」という「普遍的秩序」の下で個人が生活する社会へと変化してきているのです。
このような日本社会で「倫理観」を強調するのは、従来の「協調の和」や「武士道精神」など「集団的秩序」の下で称賛された「旧い美徳」に逆戻りする危険性があります。また、「倫理」という抽象的で、かつ各人ごとに基準が異なる価値観をコンプライアンスの内容にすれば「より高度なものが優れたコンプライアンスだ」という考えになりがちです。また不祥事発生自体は避けられませんので、その度毎に「倫理観不足だ」と指摘され、その要請が際限なく高度化し、遂には資本主義社会の「競争」すら否定するような非現実的な「聖人君子」的基準が唱えられかねません。
コンプライアンスが本来の機能を超えた「攻撃的」コンプライアンスとなって、企業を苦しめてしまいます。
このように「規程」より「倫理観」が強調されるのも、日本では「法律」が身近に感られて来なかったからでしょう。その象徴が「ルールは建前に過ぎない」とするマニュアル軽視です。企業が倫理観を重視するあまり「精神」を鼓舞するだけでは、むしろマニュアル軽視がさらに進行してしまって、この日本ではかえって有害無益です。倫理的な要請は、それを企業規模に見合った「現実的で具体的なルール」として定めるところまで行かなくては、コンプライアンスが合気道の「技」のレベルまで具体化したことにはなりません。
具体的な、守れるルールを「防衛」の観点から自分たちで創り、そのルールを現実に守っていくことがコンプライアンスなのです。
文責西尾(平成22年12月6日)
弁護士に「公益性」はあるのか。
波頭亮さんは、「本当のプロフェッショナル」とは、知識や技術に裏打ちされた職能で稼ぐだけではなく、それを使って「公益のために、使命感を持って仕事をしているかどうか」だ、としています(「日本人の精神と資本主義の倫理」幻冬社新書)。後で述べるとおり、「公益性」は、今の日本では有効な概念だと思います。
弁護士は、医師や経営コンサルタントなどようにプロフェッショナルの典型にようにいわれます。プロフェッショナルは、自分の専門知識や技能を売りものに、組織に縛られぬ独立性を持ちますが、依頼者の意向に左右されざるを得ません。そして、弁護士が医師や経営コンサルタントと決定的に違うのは、紛争当事者の一方に加担する、ということです。また紛争に関する職業でも、公平・中立の立場で行動する裁判官や検事の公益性は明らかでしょう。弁護士も、正義に仕えるなら、公益性があると言えるでしょうが、そうはいきません。
勧善懲悪のスタイルを守るテレビ時代劇では、水戸黄門も大岡越前も暴れん坊将軍も、すべて主人公の「正義=権力」という立場が、悪退治の実効性を保証する構造になっていますが、「用心棒」「椿三十郎」「7人の侍」といった黒澤明の映画では、私人である用心棒や野武士の知恵と武闘能力・技量だけが「正義」実現の力を担っていて、正義と権力の親和性は意識的に避けられています。西部劇映画「荒野の用心棒」の「ピストル対ライフル銃」の対決は、本家「用心棒」の「剣対銃」という不自然さを解消するのが目的ではなかったかというほどしっくりきますが、この剣なり銃なりが、依頼された用心棒が頼る唯一の「力」です。
そして、いずれでも、紛争に飛び込む第三者たる用心棒が仕える一方当事者、農民や弱者に「正義」がある、ということは当然の前提となっています。つまり、観客は、用心棒が勝利することが、すなわち「正義」の実現である、という結末を安心して見ていられるのです。
村上式シンプル英語で一躍注目浴びてペーパーバックが店頭にずらっと並んだロバートBパーカーの、探偵スペンサーは、彼の考える「正義」を、私的軍隊を使って実現してしまいますが、これも「正義」と「実現」がワンセットになっています。
弁護士は、ある紛争や事件で、一方当事者から、経済的対価によって雇われる点は、用心棒や私立探偵、ボディガード等と似ています。雇う側の基準は、そのプロフェッショナルとして技能でしょうが、雇う側に正義があるとは、限りませんし、仮に、正義だから受任する、としていても、依頼者が正義で、相手が悪、という前提自体が確定していません。そもそもどちらに正義があるか、決めかねるものがほとんどです。少なくとも双方が「われに正義あり」と主張しますし、裁判官が無理解なら判決で負けてしまい、正義が実現するとは限りません。「正義」を「実現」するという裏付けのない仕事、この「私的傭兵」として私益を守る立場にある者に、「公益性」があるのかといえるのか、本当のプロフェッショナルといえるのでしょうか。
かつてTVで「西部の男、パラディン」という魅力的な主人公の西部劇がありました。彼は、"HAVE GUN, WILL TRAVEL"「銃あり、どこでも参上」という名刺で売り込む、雇われガンマンです。
弁護士も雇われガンマンにたとえられますが、さしずめ、「バッジあり、どこでも参上」というところでしょうか。私どもの事務所でも、モア・ザン・エクスペクテッド、期待される以上にやれ、と顧客重視を売り物にしています。技量や能力の研鑽に励むのは、いい仕事をして、多くの顧客の満足を得るためです。そのどこに「公益性」があるのか。
藤原伊織さんが直木賞をとった「テロリストのパラソル」という小説に「僕らは世界の悪意と戦っている」というセリフがあります。パラディンの魅力は「正義の味方」や「正義」の「実現」ではありません。雇われながらも自立したプロフェッショナルとして行動し、この行動の基準となっているのが、「揉め事の解決」という、「世界の悪意との戦い」です。これが、彼が信じる行動原理の「公益性」だと思います。「官」の下請けでもない、ささやかな、いわば、荒野の公益性です。
私どもの事務所も、依頼事項が悪であると判断した事案は受任しません。しかし、明確に正義の味方だ、と判断できなくとも、我々の弁護士の仕事は、「紛争を解決する」ということを通じて、社会の中にある「世界の悪意」を少しでも減少できるものだ、と思います。これが「公益性」であり、さしずめ、世間としての「公」の分野での用心棒、「公野の用心棒」と自負していいのではないか、と思います。
「公共性」「公益性」が盛んに論じられるのは、今の閉塞した日本の現状を反映しているといえるしょう。
佐々木敦さんは「公共性」が、リアルな問題としてではなく、思想をするためのプレテクストとして「ルール」として使われていると指摘しています(「ニッポンの思想」講談社現代新書)。国家理念のない、今の日本の現状を打開するキーワードとして一番有効な言葉かもしれません。この「公」の中身は、問われるべきでしょう。
「公」は、「公務員」というように国家・政府という権力装置「官」と、「公衆」というように世間・社会という「民」の、どちらにも繋がる言葉だと思います。鈴木浩三さんの「江戸商人の経営」(日経新聞社)によれば、江戸がわずかな数の与力・同心で維持できたのかは、町年寄などの自治組織が、公儀の「官」と、町人の「民」を結ぶものとして「公による経営」が自律的に機能したからであるとしています。これは、「官」の下請け組織としての機能を、民が「公」という形で担ってきた、ということでしょう。
「公益性」「公共性」も、果たして、「官」の下請に過ぎないのか、あるいは、「民」の共通の利益に資する自立した機能か、ということを問うた上で、中身をリアルに具体化する必要があるでしょう。今の日本の閉塞状況を打破するのは、後者の立場での「公共性」「公益性」の実現だと思います。
文責西尾(平成21年7月28日)
私どもの法律事務所の仕事は国内が殆ですが、時たま英文の仕事が舞い込みます。それで、英文への抵抗感を無くすために、日ごろからペーパーバックでミステリーを読むようにしています。昔はシドニー・シェルドンやアガサ・クリスティ、それから村上春樹さんお勧めのロバートBパーカーのスペンサー探偵シリーズでしたが、最近は、マイケル・コナリーのハリー・ボッシュ刑事シリーズを楽しんでいます。
アメリカの刑事物を読んでいると、刑事に踏み込まれた大物の容疑者が、「弁護士を呼べ!」と秘書に叫ぶ、すると、お抱え弁護士がすっ飛んでくる、というシーンがよく出てきます。こんなに風に簡単に駆けつけるのは、スタンバイしているからか、他の仕事をほっぽらかして来るのかしら、といつも不思議に思います。
それに、尊大な真犯人をかばう下僕のような役回りや敵役で弁護士が登場する、というストーリーが、アメリカのミステリーでは多い。ペリー・メイスン弁護士シリーズは、弁護士が真犯人を探し出し、無実の被告人を救う、という筋立てで、それなりに面白いのですが、リアリティが乏しい。マイケル・コナリーのハリー・ボッシュ刑事シリーズは、捜査の進行がリアルで迫力があり、ストーリーも二転三転と飽きさせません。ロサンゼルス市警察殺人課のはみ出し刑事ボッシュは、現場でも法廷でも被疑者・被告人の弁護士とよく衝突しますが、彼は一歩も引きません。何せボッシュ刑事は、法廷担当検事すら叱りつける程の、真実追求の使命感に満ちた捜査官です。弁護士ごときに怯んではいられない、というところでしょう。
アメリカでは、刑事弁護士として特化していなければ食べていけません。日本のように民事・商亊もやりながら、という訳には行きません。それだけ必死にパフォーマンスもするし、営業も必要でしょうし、依頼者のご機嫌を損なえば、いくらでも代わりはいるよ、と切り棄てられるでしょう。アメリカの弁護士は100万人といわれ、日本の弁護士2万人とはえらい違いで、厳しい競争に晒されています。弁護士業務は出発点に過ぎず、魅力の乏しい弁護士業務から早々に足を洗う、ということもしばしばで、多くの政治家が弁護士出身で、アメリカ大統領選挙を争っていたヒラリー・クリントンもオバマも弁護士です。
アメリカでは「元弁護士」の作家も大勢います。実務経験を基にリアルなフィクションが書けるという有利さがあるからでしょう。「推定無罪」のスコット・タロー、「法律事務所」のジョン・グリシャム、「ボーンコレクター」などリンカーンラ・イムシリーズのジェフリー・ディーバーなどのミステリー作家は、弁護士の経歴を生かして(捨てて?)作家に転身し、成功しました。マイケル・コナリーは弁護士出身ではありませんが、ボッシュシリーズ「シティ・オブ・ボーンズ」で登場する元弁護士の新人警官の女性に「民事弁護士だったが、退屈でつまらなかったから辞めた。」と言わせています。
今見直しが議論されていますが、年間3000人も司法試験の合格者を出せば、日本の弁護士も厳しい競争社会になりますし、痒い所に手が届く、というようなサービスを標榜する弁護士が出てくるでしょう。昔、香港のイギリス人弁護士(ソリシター)から、「日本では客が弁護士をカラオケに接待するでしょうが、香港では弁護士が客をカラオケに接待するのです。」と言われましたが、今後は日本もそうなるでしょう。
いままで日本では、尊大なのは、顧客ではなく弁護士の方だったがことが多いので、それは一時的にはいい傾向でしょうが、長期的には疑問です。その職業が総体として顧客に媚びれば、尊敬されなくなり、やがて、その社会的地位が下落するという悪循環に陥るのは、日本での「教師」や「医師」の世間の扱い方を見ればよく判ることです。「難しいことをやっている」という一般の人から見た職業観が無くなれば、当然尊敬は得られなくなります。教師は「ゆとり教育」が、医師は「患者様」という扱いやインターネットで溢れる医事情報や医療過誤報道が、彼らの地位を下落させました。
職業人である以上、法律の専門家で無い依頼者や、敵方・相手方に対し、ご機嫌取りや反省しすぎは良くないことです。人はそれほど全面的に善人でなく、暗い面・ずるい面があるのですから、マキャベリが指摘しているように、罠に騙されない「狐」の賢さと、狼を驚かす「獅子」の強さが必要でしょう。ボッシュ刑事を見習い、ミッションにこそ忠実にあるべきだと思うのですが、そのミッション実現は、平板な態度では達成しないでしょう。
さて私ですが、「弁護士を呼べ!」という場合、実際は、そうそう対応できるものではありません。でも、うちの若手のイソ弁は、直ちに駆けつけますので、顧問先の皆様、安心してお声を掛けてください。
文責西尾(平成20年9月29日)
判決書には裁判官の天才を見たい、と切実に思います。天才とは、秀才がいくら努力をしても達しない高みにあるものです。つまり、程度の差でない、質的な差です。
裁判の場では、弁護士がどんなに素晴らしい書面を書いても、判決にはなりません。判決という公的な効力の担保された書面は裁判官しか書けません。その意味で、弁護士はどんなに努力しても決して判決にはたどり着けません。判決は、そういう高みにある書面です。弁護士からすれば、勝っても負けても、判決書の記載が、弁護士の達したレベルを質的に凌駕して欲しい、つまり天才の仕事であって欲しいのです。
秀才といえば立花隆さんです。立花隆さんの「ぼくの血となり肉となった500冊、そして血とも肉ともならなかった100冊」(文芸春秋社2007.1)を読むと、この人の勉強好きは桁外れだと思います。茂木健一郎さんは、才能があることの証拠は「過剰である」ことだ、と指摘していますが、例えば、1冊の本を書くのに100冊が必要という立花さんの撤退した調べぶりは、氷山が、ホンの一角しか海上に現れないように、海面下の「過剰な調査」の膨大さが必要だという認識をしているからでしょう。確かにすごい才能です。しかし、立花さんの仕事は、天才に肉薄するけれども、天才の域には達していない、いわば、ゼノンのパラドックスの中のアキレスのように、その努力が過剰であればあるほど、どうしても一線を超えられない、秀才の過剰な努力の限界を感じます。貶しているわけではありませんよ。そういう点は、判決書を書けない弁護士の仕事に似ている、いくら努力しても立派な準備書面を書いても、決して判決書にはなれない。結果に反映されないかもしれない、過剰な努力をするのが、弁護士の仕事で、秀才の仕事ぶりに似ている、と思うのです。
一方、天才といえば私には山田風太郎がうかびます。「魔界転生」などの忍法帳にしろ、「警視庁草子」などの明治ものにしろ、出来上がった作品世界の、完成度と独自性は屹立しています。天才の仕事は、すべてまず、作品があった、という感じさせるものです。様々の作為を弄した跡や製作過程の苦悶の痕跡が残っていないのです。過剰な製作努力のあとなど微塵も感じさせません。ゲーテの「天才とは努力し得る才である。」という言葉を引用し「天才は努力を発明する」(モオツァルト)など天才に関する文章を多く残した小林秀雄が、文章が書けなくて、苦しい苦しいと這いずり回っていたというのは、有名な話ですが、彼も秀才の典型でしょう。吉行淳之介が、文章を書くのが苦痛ではないと言い放った山田風太郎に絶句した、というエピソードがありますが、ここにも山田風太郎の天才を見る思いがします。立花さんは、フィクションは時間の無駄だから読まない、と言い放っていますが、フィクションは確かにあってもなくてもいい代物で、おそらく天才でなくては意味のある仕事はできないでしょう。例えば、私が最高の小説の一つだと思う、ジュリアン・グラックの「シルトの岸辺」(ちくま文庫)を読めば、「天才しか創り上げられない世界に浸れた」という満ち足りた充実感があります。
裁判官にとっての判決も、誰でも書けるものではありません。そういう意味で我々は判決書に作品としての完璧さを期待します。確かに、すごい判決にあたると、天才の作品に出会ったと感じます。くだらない小説ほど時間の無駄だと思うことも多いわけですが、論理力も論証も無く、文章も格調がない判決は、これより劣ります。裁判官は天才が要求されている小説家と同様に、きちんとした完璧な世界が描けなくてはなりません。
しかし、残念ながら最近の判決書に天才を見ることが少なくなりました。負けても納得せざるを得ない、勝っても論証力に感嘆する、そういう判決書を期待していますし、裁判官は天才の仕事を目指すべきです。もちろん秀才の仕事を目指さない弁護士も論外です。
文責西尾(平成20年2月8日)
村上ラジオ」(新潮文庫)で「別れることは少し死ぬことだ。」というレイモンドチャンドラー(1888-1959)のセリフが引用され、いい別れかたはなかなか出来ないもんだ、と村上春樹さんは書いています。軽妙にも深刻にも解釈できる含蓄のある言葉で、いろんな話につなげられそうです。いかにも気取り屋のチャンドラーがいいそうなセリフです。ところが、鹿島祥造さんの「ハートで読む英語の名言」(平凡社ライブラリー)では、この言葉”To part is to die a little”は、フランスの劇作家アロクール(1856-1941)のものと紹介されています。チャンドラーへの言及はありません。「親はあっても子は育つ」という有名ことわざのパロディは、教育評論家の阿部さんの文章で読んで「ふーん」と感心したものですが、あとで坂口安吾の文章にあったことを知りました。考えてみれば、これくらいのちょっとした気の利いた「名言」はだれでも言えそうで、いつかは誰かが思いつくでしょう。最初に言った者勝ち、という面がなくもありませんが、最初に口にした者には権利が発生するのか。
そもそも名言に権利があるのか、と考えるのが法律家の悪しき習性です。具体的には「著作物性」あるか、「著作権」が成立するか、ということです。著作権が成立すると、その表現については独占的権利が成立し改変が禁じられますから、例えばパロディでもじるのも、原則としてその人(故人なら死後50年間)の了解を取ることが必要、というやっかいなことになります。
著作権は「文芸、学術、美術、音楽の範囲に属する」「創作的」表現に成立します。他方、キャッチフレーズやスローガンのような言葉の組み合わせによる短い表現は、奇抜性はあっても創作性はないので著作物性はなく、著作権は成立しないし(加戸守行「著作権逐条講義」)、古語の単語訳や年代を語呂合わせで覚える表現は受験生に愛用されていますが、これもアイディアにすぎず表現としては創作性がない、とされます(田村善之「著作権法概説」)。俳句については桑原武夫さんが「第2芸術論」で、高尚でないと酷評したことが知られていますが、17字と短くても文芸領域の表現として著作物性は認められます。他方、交通標語は前記キャッチフレーズと同様に著作物性は否定されます。伊丹十三さんが「飛び出すな、車は急に止まれない」という交通標語をもじって作ったといわれる「飛び出すぞ、子供は急に止まれない」という傑作なども、もじることが格別人格的侵害にわたるようなことがなければ、自由ということになります。しかし、さきの田村さんの本でも紹介されている通り、「あさまし」=「めざまし」を「朝めざましに驚くばかり」とした古文の訳語を覚える表現に著作物性を認めた判決もありますから、その判定は微妙です。
さて、名言です。人生の知恵の表現ですが、ちょっとした思い付き、ともいえるので、短い表現は著作権で保護しなくてもいいと私は考えます。勿論、詩の一節や長い名言には、文芸や学術領域の表現として創作性があり、著作物性が認められるものがあるでしょうが、そうでない場合は、著作物とはいえず、パロディもひねりも自由、いちいち出典を示さなくても利用できる、という方が、言語文化を阻害しない、といえそうです。
私は、名言のなりたちには、(1)短い、(2)意外な組み合わせ、(3)実用に向く含蓄がある、という3点が必要だと思います。例えば”Showing up is 80% of life.”というウディ・アレンの言葉は、まず、短い、という点で合格です。また、「人生」という重いものを80%という単純な数字で、軽く表現しています。そして、顔見世が大事、逆に言えば、自分の人生で大切だと思うところに顔さえ出していればいい、という、潔い人生の知恵を感じます。名言でしょう?
文責西尾(平成18年6月15日)
三島由紀夫の小説「美しい星」に、新聞に「
に関心のあるかた」と呼びかけたら、この記号を、意図どおり「円盤」と理解した反響があったという話があります。私が呼びかけるのは、「○」に関心のあるかた、です。さて、しかし、○はで私の意図は判りかねますね。「○」はいろんな意味で使われます。オーケーの○、白丸で白星のこと、一重丸で二重丸ではない、伏字の○、ゼロ特に漢数字としての表記で使うなどがあります。このような抽象的な記号には、明確に意味を持たない反面、いろんな思いが込められる、という利点があります。サマセットモームが長く不在の間に妻に出した手紙は「、」だけだったそうですが、この記号だけで、双方に、言葉にできない、言葉を超えた一つの気持ちを共有させた、ということでしょう。
私の今日の話題は、漢数字としての○です。
今では裁判の書類も縦書きでなくなったので使わなくなりましたが、我々法律家は縦書きでは、数字は例えば「二十二」を「二二」、「三十」を「三○」と表記しました。これはなるべく字数を少なくする工夫であるらしい。確かに壱千九百九拾八年は、一九九八年となり、3字少なくて済むし、見た目もごちゃごちゃしません。いかにも効率重視を要請された法律文書らしい。十も○も一字で字数は同じですが、算用数字を縦書きにした表記、として一貫しようとすると、十は「一○」となります。しかし「お言葉ですが・・」の高嶋俊雄さんによると、そもそもこのような表記は本来の日本語表現にない。「娘二八は二九からず」の二八とは2×8=16歳、二九は18歳のことであって、28歳19歳のことではない、第一それでは意味が通らない。最近では毎日新聞や金融法務事情のように、新聞や雑誌の縦書き記事の中に、もろに算用数字が用いられる例も少なくありませんが、見た目もここまで徹底した方が読みやすい。こうなると漢数字としての「○」は、肩身が狭く、その役目での出番はますます少なくなるでしょう。
ところで○はそもそも漢字なのでしょうか?手元の角川漢和中辞典には「○」は出てきません。阿辻哲次さんの「漢字三昧」(光文社新書)によると、悪名高い則天武后は自ら漢字を造った、とあります。そこで「○」は「星」の字と定められた。彼女の作った漢字で今でも残るのが、水戸光圀の「圀」で、彼女は、本来の「国」という字は、玉が囲まれているのが気に食わない、彼女の国は世界の八方を囲むものである、としてこれを造った、とあります。中国古代の歴史を見ると、権力を握った男性はまず、壮大な宮殿を造り、美女数百人を侍らせる、といったところ。女性は権力を得ると何をしたくなるのか?則天漢字は、今でもあるアイデア漢字の類ですが、これを歴史上も通用させたいというのは、可愛いげはありますが、野望と言えばこれ以上の野望はないでしょう。○を星という字にした、ということ自体は、あるいは○にとっては、意味を貰って幸いだったかもしれませんが、仲間内の遊びごとならいざ知らず、権力でこれを強制されば、○本来の自在さがなくなり、こんな味気ないことはありません。
○には、いろんな自由があるのがいいのです。よく「○○」は「××」だ、と使われますが、わかる人は判る、わからない人にはさっぱり、というこんな使い方ができなくなってはつまらない。漢数字としての○の行き場がなくなっても、○はなんにでもなれるのですから、○は不滅です。わざわざ私が確認するまでのことではない、のですが…。
「世の中に片付くなんてものは、殆どありやしない」(漱石「道草」)。それでも解決したいというのが弁護士の仕事ですが、あせったからといってうまくいくとは限らない。たまには漱石に倣って道草でもしてみましょう。
文責西尾(平成16年6月17日)